秋は一年のなかでもっとも感傷的。私が好きな季節。

エッセイ

秋は、一年のなかでもっとも感傷的な季節だ。

暑さが消えて、不意に寂しくなる。寂しくなるが悲しくはない。ほどよい感情。

しかし、同時に秋は思考が忙しくなる季節だ。

考えてばかりいると、感傷が追いやられる。

秋を感じるには、思考を手放す努力をしなければならない。

夏の暑さがあって秋の感傷がある。

最近は、九月になっても猛暑が続き、昼間に散歩でもしようものなら、汗が噴き出て、まったく夏と変わらないような状態になる。

それでも、くもったり雨が降ったりすると、涼しくなるので、そんなときはじめて秋を体感することができる。

ようやく過ごしやすい季節が来たと思う。

私は一年のなかで秋がもっとも好きだ。

夏も悪くはないのだけれど、あまりに暑い日が続くと、疲弊してくる。

汗をかくので、洗濯物が増えるし、洗濯物を減らそうと思ったら、行動範囲を狭めなければならない。

あきらかに他の季節に比べて不便だ。

それに、猛暑で気が萎えそうであっても、仕事はしていかなければならない、気持ちを奮い立たせなければならない。

そうだ、夏は闘いなのだ。気が付いていないが、ひとは暑さと猛烈に闘っている。

それが、気温がやや落ち着いて、蝉から鈴虫に自然の声が代替わりすると、ああ、闘いは終ったと思う。ようやく休息ができると思う。

私は、秋でこの瞬間がもっとも好きだ。

何か大きな仕事を終えたような、そして、しばらくは休息の時間が続く、そんな人生の晩年じみた感傷を感じることができる。

寂しい、寂しいが悲しくはない、ほどよい感傷だ。

この記事を書いているのは九月の四日なのだけれど、八月の終わりごろから鈴虫が鳴き出した。

リンリンリン。

これも私には感傷となる。

蝉の激しい活動的な声に比べて、鈴虫の声は休息を促す。

声を聞きながら、お茶で一服でもしたい。

夏から秋に、動的なものから静的なものに、暑さから寒さに、変化は連続する。すべては変わっていく。

それもまた感傷的だ。日本人が好きな感情だ。

秋は思考も忙しくなって、感傷が追いやられる。

秋は良い季節だといっても、私は秋になると毎年体調を崩す。

秋は、内省的になるので、ごねごねと内向きなことを考えているうちに、動けなくなってしまうのだ。

私は、クリスチャンであるので、内省的になるとたいてい宗教的なことを考える。

去年は、中世のカトリック神学の本に影響されてかなりストイックになっていた。

私は体が弱い。ちょっとしたストレスにも耐えられない。

本を読んで、やる気が起きるどころか数日間、布団から起き上がれなくなった。

カトリックのお坊さんにいじめられているような気持になった。

中世のカトリックはとにかくストイックで教えに厳しく、それがプロテスタントを生む要因のひとつにもなっている。

まあ、それはともかく、内省的になるほど、秋が感じられなくなるというのも残念なことだ。

感傷が追いやられて、思考ばかりが忙しくなる。

涼しくなって体が動きやすくなると、思考も活動しやすくなるのだろうか。

しかし、この一年で、私は思考にはさほど執着しなくなっている。

十字架の聖ヨハネという神学者が「思考を手放せ」といっていて私はこれを愚直に実行したのだった。

だから、今年は過ごしやすい秋になりそうだ。

秋の感傷をじっくり感じる。

秋とは、やはり、他の季節にまして「感じる」季節なのだと思う。

冬から春よりも、春から夏よりも、変化は大きい。

見る景色の変わりようは、その季節によって特徴はあるが、体感という面では秋がもっともダイナミックだ。

人間というのは、自分が思っているより、考える動物ではないだろう。

「感傷」という言葉がある通り、人間は深く感じることができる動物なのだ。

秋の感傷はその一例だ。

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