mizuno yutaka

エッセイ

中庸を悟るポイントは習慣化。

中庸とひとこと聞いても、それがどういった概念か分かりづらい。もちろん、それは中途半端の意味ではないし、バランスをとって真ん中らへんを行くのでもない。それは、何事かをルーティンで行うことのなかにあるもので、言い換えれば、習慣化こそが中庸の哲学だ。
小説

さっちゃん。【短い小説】

老人がAIの少女を電気屋で購入する。彼は自分の孤独な生活が多少まぎれるだろうと、彼女との生活に期待していた。少女は彼女の年齢には少し幼い歌を好んだ。老人はれを楽しんだ。近くの公園に彼女と出かけるのも日課になり、彼女がきっかけで話しかけて来るひともいた。みな彼女がAIだとは気が付かない。
エッセイ

神学に学ぶ、「あいまい」な知恵。

神学というと、西欧哲学によく見る理詰めで、科学的なアプローチをまずイメージするひとは多いように思う。しかし、トマス•アクィナスに見るように、結局は、神学も理論ではすべてを把握はできないと結論は行き着く。この「あいまいさ」こそ神学に見る知恵だ。
エッセイ

中年になってからの勉強法。老若男女問わず勉強の必要性は高まっている。

三十を超えると、どうしても時間やその他のことを考えて勉強には及び腰になってしまう。組織で働く場合、勉強も組織や労働市場の需要に合わせて戦略を練る必要がある。一方、フリーランスの場合、学んだことで利益が得られるかどうかは、本人の考え方によるところも大きい。
エッセイ

やりたいことをやって生きて行けるだろうか。やりたいことの見つけ方と、やりたいことへの取り組み方。

やりたいことで食べて行けたなら、それで誰も文句はないとないと思うが、なかなかそうはいっても難しい。なかにはやりたいことが見つけられないひともいる。やりたいことはあるけれど、不安でそれに集中できなひともいる。しかし、そうした困難さ目の前に回答があったりする。
エッセイ

文化的バイアスとは何か? またその対処法「いったん待ってみる」

文化的バイアスは誰しもが持っている。「アメリカ人はこう」「中国人はこう」「キリスト教徒はこう」「女はこう」こういうものに対して、人間は自由に慣れない。しかし、それを理解したうえで、判断を「ちょっと待つ」ことはできる。文化的バイアスも「待てる」かどうかで幅が変わる。
エッセイ

人生は過ぎ越しという考え方。キリスト教の人生論。

仏教から人生観が離せないように、キリスト教にも人生論というものがある。コヘレト書に「空しい」という言葉が繰り返されているように人生とは「空しい」もの、それにこだわるのは間違っているという考え方がある。正教会では「人生は過ぎ越し」といい、カトリックでは「人生は巡礼」といったりする。
エッセイ

自分のために書くか、商売のために書くか。書くことが好きなひとのためのエッセイ。

文章を書くのが好きなひとはたいてい自分のことを書きたいと思うものだ。一方で、それを生業にしてしまうと、書きたいことが書けなくなってしまう。「稼ぐ」を目的にすると、「自分」は度外視される。書くことで生み出される「文化」もある。文化は「自分」の精神活動を支えるプラットホームだ。
エッセイ

「貧しさ」も瞑想になる。お金は捨てるべき? 求めるべき?

「貧しさ」がなければ、瞑想は発展しない。しかし、「貧しさ」は金銭的欠乏をさすのでもない。誰しも執着を抱え、それが悩みの原因にもなり、執着を取り除こうと必死になってそれが悩みとなる。金への執着に対し、多くの場合私たちは無力だ。しかし、無力もまた「貧しさ」ではないだろうか。
エッセイ

ちょっとだけ田舎に住むという考え方。いいとこだけを取るのがコツ。

田舎暮らしをするにしても、都会のくらしをすべて切り上げて引っ越してしまうのは、リスクが高い。そこで、ちょっとだけ田舎に住むという方法を考えてみたい。田舎は物価が安いので、都会とは別にもう一軒、部屋を借りるのにコストそうかからない。年に何度か田舎に瞑想に行く。それがちょうどいい。