芸術家は計算しない。スマホを置いて、自然に近づくこと。

エッセイ

芸術家は計算しない、とはリルケの言葉。

私も文学をやっているのだけれど、計算ばかりしている自分が嫌になることがある。

計算は、インターネットを使うことによって増えた。ひととの無益な関り。

しかし、芸術をやるには泰然とているのがいい。

スマホを置いて自然に向き合うこと。

計算の原因はインターネット。

高橋保行の「神と悪魔 ギリシャ正教の人間観」という本に、こういう一文があった。「知性そのものは必ずしも論理的ではなく総合的にとらえた現実のなかに自分の生き方を察知する能力である」ようするに、数学的な計算ばかりが知性ではないということだ。中年になってもう若くないと悟るのも知性だろう。

私は、文学をやっているが、しばしば計算ばかりしてしまう自分が嫌になるときがある。

私の文学の先生にリルケがいる(といいても、彼の本でまともに読んだのは、若い詩人に宛てた手紙くらいで、はなはだ不勉強ではあるのだけれど)。

リルケは、はっきりと芸術家とは計算しないものだといっている。

おそらく彼は、自分の野心や、生活上の必要のために文学を道具にするなといっているのだ。

おそらく、これを聞いて、心を痛めない作家志望者はいないだろう、いや、プロとして活動している作家にしも、そのほとんどは、こうした計算のために自分の純粋な思いをうやむやにさせてしまっているのではないか。

しかし、みな生活していかねばならないし、わけのないことでもない。

計算といっても、自分の虚栄心、あるいは、原稿料の計算だけが、それにあたるのではない。

いや、それに関連することで、いまや様々、計算すべきことや心配事が増えている。

例えば、SNS。何気なく、TwitterやFacebookを私たちは使っているけれど、始めは興味本位で、試しにやってみただけなのに、そのうち多くの思い煩いがそこから発生していることに気づく。

フォロワーを増やすには?うっとうしいあいつを排除するには?ビジネスにも使えるんじゃないか?あのとからリプライを得るには?使って一週間もしないのに、もう心配事で頭はいっぱいで、計算ばかり増える。

一般の多くのひとがそうであるように、文学をやるものも、SNSのせいでゆっくりする時間は確実に減っている。

インターネットがなかったころ、ひとりになろうと思ったら、ひとに会わなければそれでよかった。

いまは、ひとりになってもネット上のつながりに気を使わねばならない。家に帰っても相手のご機嫌を窺わねばならない。

田中慎弥さんは「孤独論」のなかでその状態を「奴隷」だといっている。

自分の自由の時間を、インターネットに奪われているのだ。

文学とはゆっくりとやるものだ、とは佐藤春夫のことばだが、近代まではあった文学への泰然とした心持はいまの作家はなかなか抱けなくなっている。

SNSで忙しくなるうちに、気づかず、生活上の計算が増える、不安も増える、そうすると、それをごまかそうと、また計算する、作家はこの悪循環からどう抜け出せばよいのだろうか、あるいは付き合っていけばよいのだろうか。

知性は論理ではない、そうであるならば、強制的に論理的知性を肥大化させるところから逃げなければならない。

いかにも、ありきたりな解答にはなってしまうが、自然に近づくことだ。

森のなかを散歩するのも良いが、まず手じかなことから、スマホの電源を切り、ぼーっとする、そんな時間が出来れば自分の体の自然性にも気が付いていくだろう。

体は自然を取り込んでいる。

心臓の鼓動も、自然的なこと、でも忙しいと気が付かない。芸術家は計算しない、とリルケ。

そして、リルケほど、自然から知恵を得た作家もいないだろう。

そして、自然は思念からは遠いものだ。

計算はもちろんそこにはない。合理的知性もない。

では、また!

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