怒りについて。

エッセイ

怒りというものほど、征服しがたいものもない。

先日、あるひとにメールを送って、無視され、憤怒した。

しかし、怒りの原因は、変に私が自分自身を高く見積もっていたことにあるようだ。

上下関係は、怒りのもととなる。

怒りの原因は、自分自身を高く見積もることにある。

先日、あるひとにメールを送って、返信がなかったものだから、時間が経つにつれて、怒りでぽかぽかと頭が熱くなって行った。

おそらくメールというものを得意に思っているひとなどいないだろう。無視されたら腹が立つし、何かしら仕返しをしても気分が悪い、放っておくのが一番だが、それでも返信がないのは気になってしまう。

私もメールが大の苦手で、本当に親しい友達としか長続きしたためしがない。今回、私のメールを無視したのは、知り合ってからはもう長いのだが、親しいというような仲でもない女のひとだった。

彼女がメールを返してこない理由ははっきりとしている。彼女はいくつか身体的な問題があって、文字を読んだり書いたりすることが苦手なのだ、そこに、ほかにも新たに別の問題が発生して、気苦労のほうはいやに増すばかりだ。私にメールを返すのが、もう面倒だし、ウザいし、何よりしんどいのだ。

はっきりいって、彼女が私にメールを返さないからといって、彼女にはまったく非はないのだ。むしろ、それに憤怒しているこちらに間違いがある。

けれど、私の怒りというものは、私の正常な判断を狂わせてしまう。けっきょく、返信がないのを憤って、送ったメールを「送信取消」というシステムを使って、彼女には見られないようにした。メールはなかったことになったわけだが、この方法では彼女にはちゃんとメールが取り消されたことは分かってしまうのだ。

もし私がまともな人間なら、彼女がメールを返さないとしても、鷹揚に構えて、そのまま放っておくだろう、そして、しばらくメールを控えるか、あるいは、彼女が何らかの反応をしてくるまで、こちらからはメールをしないか、そういう方法を取るだろう。

残念だ、私はそこまで大人でもないし、人間は大きくない、いや、醜いくらいに根性は小さいようだ。

そもそもなぜ、怒りは起こるのだろうか、この場合、無視されたことに私は憤っている。無視をするとは、つまり、私をまともには相手にはしていないということだ。

しかし、これが相手のほうが、私よりもいくらも年長で、立場が上だったらどうだろうか、例えば、勤めている会社の社長だったら、あるいはありえないが、総理大臣だったりした場合、メールを無視されてからといっても、おそらく、こうまで怒ることはないだろう。きっと、相手は忙しいのだ、迷惑をかけた、くらいにしか思わないはずだ。

けれど、相手が自分と対等か、ちょっと見下している相手からメールを無視されたら、怒りは倍々ゲームで増大していくのだ。

「キリストにならいて」という中世の信心書には、自分を優れたものと思うな、というような一文がある。自分を世の中でもっとも低いものと思っても害はないが、誰かひとりでもそのひとより立場が上だと思うとそれには多くの災厄が潜んでいる、そんな書き方ではなかったが、だいたいそういった意味のものだった。

私は、知らず、メールの相手を自分よりも下に見ていたようだ。

おそらくもう、私は、彼女にはメールを送ることはないだろう。こちらからの連絡を負担に思っているのは確かなようだ。そんなことをいちいち考えるこちらもしんどい。

ひとを自分よりも下に見ないとは難しい。

だが、変にきばっても逆効だ。

仏教には縁という発想がある。友人関係にも縁がある。縁がないところに首を突っ込むと、かえって上下が生まれる。無理に引っ張ってもトラブルももとだ。

では、また!

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