日記ブログという文芸ジャンル。ただ自分のことを語る。

エッセイ

日記ブログという文芸ジャンルがあっても良いと思うのだ。

日記ブログは、エッセイのように型を意識しなくて良いし、ノートに書く日記のように閉じていない。

つまり、エッセイよりも自由に書けて日記より外に開かれているのだ。ブログの強み。

ゴッホの手紙も日記ブログのようなものだ。ただ自分のことを語っている。

日記ブログは、エッセイのように型を意識しなくて良い。

昼間飲んだコーヒーが効いて、いま夜中の一時なのだけれど、眠れずにいる。

明日からまた書く日々が続くのだけれど、それを考えると億劫なので、こうして早めに仕事をして、明日は休みにしようかと思っている。

で、これは冒頭の書き方からも分かるように日記となりそうだ。

頭が動かなときは、エッセイのように一応体裁を考えて書くような文章はしんどいのだ。

失敗したりしたら、それこそ死にたくなる。

私はこのブログで、エッセイを主に書いて来たのだけれど、日記的な書き方のものも少なくない。

エッセイの書き方が分からなかったというのもあるが、日記の方が書くのにはるかに楽だからというのもその理由の一つだ。

エッセイは良いものを書こうとすると、それは骨の折れる仕事だ。

内容をちゃんと用意しておかねばならないというのもあるが、私が苦労したのは型だ。

エッセイというのは文芸のなかのひとつの形態で、小説、詩といった他の文芸ジャンルと同じように基本的には何を書いて良い。

なかには書き方に困ってフィクションを入れてしまうひともいるくらいだ。

しかし、エッセイも整頓された形にしようと思うなら、それなりのフォーマットに沿って書いて行かなくてはならない。

例えば、起承転結に合わせて話を分割するとか、序論と本論とに分けて、序論で種明かしをしてから、本論でその説明をしていくとか、大学のレポートがそうであるように、論理的な手順を踏んだほうがエッセイも読みやすくはなる。それはまあいい。

でも型というものは他にもあって、少し抽象的になるが、物事を対象化して書くというのがそうだ。

これはほとんど暗黙のルールで、優れた文学者はそんな決まりなど一切口にださないのに、きっちりとそれを守っている。

では、物事を対象化するとはどういうことか、それは自分でない何かを書くか、自分を書く時でも、自分を他人のように書くか、ざっくりいうとこのふたつにつきる。

もっと簡単にいうと、自分を薄めに語るのだ。

エッセイは主観でものを書いていくのだけれど、そこに自分の個人的な事情を入れ過ぎると、それは日記になってしまう。ラーメンを食べた、チャーハンも食べた、おいしかった、と書くのは日記ではよいかもしないが、エッセイを書こうものなら、ラーメンの味を描写するなり、食べて誰かを思い出すなりして、物や人物(他者)に重点を置かなければならない。

いってみれば、エッセイは(外)を描写するものなのだ。

で、これに私は疲れた。日記的な文章がこのブログで多くなったのは、自分のことを語りたい欲求に打ち勝てなかったからだ。

でも仕方がない、体力がないんだから、エッセイはとかく疲れる。

でも、日記ブログというひとつの文芸ジャンルがあっても良いのではないかと私は思うのだ。

日記ブログとは、日記でもないし、エッセイでもない、いわばその中間をいくものだ。

参考があるとすれば、ゴッホの手紙だ。ゴッホは手紙の中で、批評をしたり、ビジネスの戦略を練ったりもしているが、自分の悩みを正直に書いていることもある。

いわば日記だけれど、手紙に書いているので、読者を意識しており、完全な日記ではない。

しかし、エッセイでもない。先に私が挙げたような型がない。外部を描写しようとするのではなく、ただ自分のことを語っている。日記ブログだ。

私は、この日記ブログというジャンルを文学として通用するまで高めたい。

では、また!

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