ゆるいインターネット。スローなものを書いていく。

エッセイ

ゆるいものを日記のような形式で書いていきたい。

インターネットは速さに満ちている。

そしてその速さは、ひとの自立性までも失わせると、宇野常寛は著書「遅いインターネット」なかで述べている。

私はスローに書きたい。

遅いでもない、ゆるいインターネットを目指したい。

遅い、そしてゆるいインターネットという目標。

眠れないので日記を書く。

でも、エッセイっぽくなるので、日記みたいなもの、ということになる。

日記であろうが、エッセイであろうが、私はそのあたりのことを曖昧にやって行きたいと考えている。

あんまりしゃっちょこばったらしんどいし。日記ブログってそんなもんだよね。

私は、普段から頭のなかが忙しいので、とにかくそれをゆるめるように努力している。

忙しいといっても碌なことは考えていないので、時間の浪費ともいってよく、それが嫌だ。

もっとゆるく、葦が風に揺れるような軽い文章が書きたい。それをネットで発表したい。ゆるいインターネット。

昨日は、体調も良く、時間もあったので、二冊も本を読み終えた。

その一冊は、宇野常寛の「遅いインターネット」だ。

インターネットに視点を置いた政治評論(あるいは社会評論?私はこういう固い本をほとんど読まないので、分類ができない)で、ネットの空間に満ちている「他者の物語」から「自分の物語」を取り戻そう、そうして初めて「自立」できるのだと説いている。

「他者の物語」とは国家やイデオロギー、あるいは大衆の持つ「場の空気」など、社会がもつ共同幻想のことで、私たちはそれに盲目になることで、自分たちの声を失っていく、つまり考えることをやめてしまい、自分自身の物語がわからなくなるのだ。

とくに大衆の持つ「場の空気感」というものは、同調圧力とも言い換え可能で、これに屈することで私たちの個が埋没していく。

現代においてそれを助長させているのが、「インターネット速さ」なのだと、著者はいうのだ。

「場の空気」に思考停止になると、より速い情報に多くのひとは反応してしまい、そのことによって「他者の物語」(それがイデオロギーであれ、同調圧力であれ)に組み込まれていく。

そこからの自立のキーとなるのが、遅いインターネットということになる。

その先のことは本を読んでみてください。難しい文言はなくて、それでいて知的な楽しみは得られます。

私はこの本のタイトルが良いと思った。まがりなりにも、私もブログで発信していて、しかも先に書いてように私はゆるいことを目指して文章を書いているので、「遅い」に「インターネット」を掛けるところに、まさにストレートにわたしの心に響いた。

インターネットというのは、そもそもストック型なのだ。十年前の文章も、少し手間はかかっても読めるものなのだ。

Twitterのように、フロー型のプラットフォームもあるが、それはひとつのパターンでしかない。

みなが、それで満足しているわけでもなく、むしろ、もっとゆっくりと、時間をかけて情報を吟味したいひとも少なからずいるもので、実際、欧米ではスロージャーナリズムというものが支持を得ている。

時間をかけて情報を精査し、批評を加える。批評というのは価値を提供することにある。本来、価値のないところにはお金は生まれないものだ。

でも、私たちは情報の「速さ」に惑わされて、自分で判断するという独立性を見失いがちだ。

スロージャーナリズム、スローライフ、スローフード、とかくあたまに「スロー」とつけないでは、その本来のあり方を私たちは認識できないようになっている。

でも、スローも良いけれど、私としては「ゆるい」の方がいい。

私はもっとだらっとしたのが書きたい。

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