英語を学ぶ理由。異文化能力の向上を目指す。

エッセイ

英語を学ぶのも大変な作業なので、そこには理由がなければならない。

異文化能力という新しい概念がある。

海外への開かれた関心と、自己を批判的にとらえる能力のことで、EUでは教育にこれが取り入れられている。

多様性は人格にも影響する。多様性だけでも外国語を学ぶ理由にはなる。

多様性という目標。

もう十年も前になるが、資格図鑑という本があってそのなかで、TOEICも宅建と同じようにやがてはすたれると書いてあった。不動産ブームと同じで、英語もいっときの流行りに過ぎず、時間とともに熱も収まっていく、とあった。

TOEICはともかくとして、英語が一時のブームであるとの考え方には当時の私も首をひねった。

不動産ブームはいってみれば、日本の国内事情によって起こったものであるので、時間が経てば沈静化していくのもよくうなずけるが、英語の必要性は世界全体の情勢を反映したもので、日本単体で起こっている事象のことではない。グローバル化ってそういうもんだよね。どこの国もくまなくそれに呑み込まれていく。

それは十年まえからそうだったし、いまもそれまで以上に、海外との関りの機会が増えている。英語の需要もまた増えている。

しかし、一方で誰でも彼でもが英語の必要性に迫られているのではないだろう。

工場のラインで働いているひとは英語は必要ないし、事務職として働く多くのひとも英語が必要でない環境にいる。

そういうひとはそもそも英語をやろうという動機が見つからない。やったところで仕事に活かせない。

実は私もそうで、私は障害があって、自宅でちまちま文章を書くことでしか職業は得られないのだけれど、私が書いているものの性質上、それを英語でも活かせる機会はまずない。

海外旅行や、留学を目標に置いたら、それはモチベーションにはつながるだろうが、私の病気は、そうしたアクティブな行動も許してはくれない。

でも、そんな英語とはほとんど無縁ともいえる境遇にいながらも、海外へのあこがれを諦めることができず、地道に英語を勉強するひともいる。

昨日、通訳者の鳥飼玖美子さんの「国際共通語としての英語」という本を読んだ。

そのなかで「国際志向性」という言葉があった。

日本人が英語を勉強する動機のひとつに「漠然とした国際性」というものがあるらしい。

外国人と係わりたいとか、字幕なしで映画が見てみたいとか、それだけで、英語学習に向かう理由となる「可能性」があるというのだ。

しかし、これも環境要因も大きく左右するらしく、そう簡単にはいかないようだ。

確かに、私は長い間、英語を勉強して来たのだけれど、その理由のひとつに漠然とした海外へのあこがれがあった。

日本にいて日本のことしかしらないのは嫌だなと思っていた。

でも、長く学び続けるにはそれだけではやっぱり物足りない。

私の場合、作家として教養を積む、というもう少し具体的な理由にそれは変わっていったのだけれど、教養を積む過程で見えてきたのは、多様性ということだった。

この多様性、あるいは異質なものとのふれあいに喜びを覚えると、もう後には戻れない、勉強も楽しくなる。

EUの基本理念は「多様性の中の統一」というものにあり、それが各国の教育の現場でも適応されているようだ。外国語教育のなかで「異文化能力」という新しい概念が提示されている。

異文化能力とは、簡単にまとめると、海外への開かれた関心を持ち、自分自身を批判的にとらえる能力のことだ。

私は自身の多様性、異文化能力の向上という目標だけでも、充分、外国語を学んでいくだけの理由になると考える。

近代の日本の文学者には外国に行くことはできなくとも、外国語の習得に熱心なひとも多かった。

彼らの文章には多様性が見える。多様性とは人格にも影響するものだ。

では、また!

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