文章は難しい。山川草木になるように書く。

エッセイ

文章は難しい。

文章を書くひとはそこに意図を持ち込む。

野心とか虚栄心とか。

しかし、そうなると自然体でなくなる。

山川草木から離れる。

良い文章というのは邪念がないものだ。すっと書くものだ。

山川草木がただそこにあるように、文章も自然にならなくてはいけない。

山川草木になって文章を書く。

文章とは難しいものだ。

今朝、気まぐれに井伏鱒二の「川釣り」というエッセイ集を流し読みしていて、ふいに「釣竿を持つには、先ず邪念があってはいけない。自分は山川草木であれと念じなくてはいけない」という釣師のセリフに目がとまった。

これは、文章にもいえるなあ、とそのとき私は思ったのだった。

文章を書いて生業にしようとするひとは必ずそこに意図があるものだ。何か事業に目的となるものがあるものだ。

自分の思想をひろめたいというのがそれかもしれないし、文学賞をとって偉いと思われたいというのも立派な目標になってしまう。

私は今朝方、書いた記事をふたつともボツにした。

文章の構成がうまく行ってなかったからだ。書き出しからリズムが悪かった。

秋は体調を崩しやすく、その影響がでたのかもしれない。

しかし、原因はもっと根本的なところにあるようだ。

私は文章でもってひとり立ちしたいとつねづね考えているので、勢い、力んでしまうことがある。いいかえれば意図を持ち込み過ぎる。自立するというのも大きな目標になる、熱心になるほど手元が狂うのだ。

さっきの話でいうと「邪念」を私は払いきれなかった。「山川草木」になれなかった。

私はあらためて井伏鱒二とは立派なひとだなと思う。

カエルが水に飛ぶように、すっと文章が進んでいく。無駄がない。

木というのは必要なだけ枝を伸ばし、生きるための形を整えていく。しかし、それ以上のことはしない。無駄がないといえば木を喩えにすれば良いのではないか。

井伏さんの文章も木を連想させる。

「山川草木」から自分は遠いと井伏さんはいうが、そんな言葉にも文章を知るひとの妙味というのが出ている。

いま図書館にいるのだけれど、ちらほらと新刊小説を読んでいると、もう立派な文章というものを求める時代ではないような気もしてくる。

世界観というのを喧伝したいひとが多いようだ。

「この文章良いね」と感じ入りながらゆっくり小説を読むひとも少なくなってきているんだろう。

懐古主義というのはあまり褒められたものではないし、私も古いものがすべて良いとは思わないけれど、一昔前(といっても戦前になるが)の文学に泰然と構えるゆったりとした気風を現代の作家のなかに見出したいと思う。

そして、そういう作家は目立たないところにいるんだろう。

目立たないというのがキモかもしれない。

井伏さんもけして目立ちたがる作家ではなかった。「急ぐひとがあればお先にどうぞだ」という気持ちで生きた。

これはなかなかできない。誰か野心作を出せば自分も、と思う。

山川草木はさらに遠のいていく。

山川草木になることほど難しいものはない。そのように文章を書くのも難しい。

今日、図書館に行くまでに何を見たろうかと思う。

山も川も途中にあるし、草木も路肩にうわって、そこからは季節外れのツクツクボウシが鳴いているかもしれない。

しかし気づかない。近くにあるものほど遠い。

では、また!

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