悩みが止まないときは、悩みを受け入れる。

エッセイ

悩みが止まないときは、悩みを受け入れるしかなく、抵抗しようとしても逆効果であることが多い。

瞑想によって悩みへの考え方も変わってくるが、やはり大きな問題が起きたときには悩みに呑まれてしまう。

そんなときは悩みを恵みと受け入れ、まっとうに悩むのが良い。

瞑想しても悩みはなくならない。

私は瞑想を自分の生活のなかに取り入れている。

それによって健康に大きな変化があり、生き方もだいぶ楽になった。

瞑想といってもたいそうなことはしない。

そのときどきに行っている作業に集中したり、散歩の時間を多くとったりするくらいだ。

ただそれだけで、考えることや空想することへの執着は減った。

それらが減退すると自分自身への過剰な評価もなくなり、ひとに対しても上下で見るようなことはなくなって行った。

自信を持つということは大切なことなのだけれど、空想によって必要以上に自分を誇大に評価してしまうと、現実感覚が見失われてしまう。

周りは迷惑するし、自分もそれによって損をする。

だから、ときどきでも瞑想をして自分を削ぎ落すということは必要になってくる。

しかし、いくら毎日瞑想をしていても、大きな悩み事があった場合、どうしても頭は思考の波に呑まれてしまう。

無駄だと分かっていても、無駄だと理解しようとしても、水が低きに流れるように、頭は考える方へと向かってしまう。

こんなときはもう悩むしかない。

ひょっとしたら、自分はリストラにあうかもしないという不安があるとき、考えても仕方ないと自分に言い聞かせても無益で、むしろ不安があることを認めて、それに対してきちっと対処すべきなのだ。

いかなる困難、いかなる試練にあっても平静でいられるのは、よほど物事に達観したひとで、口で偉そうに「悟りとはこうだ」と分かったふうにいっているひとが、実際にほんとうにそれを体得しているかはまた別、ましてや凡人にいたっては、不安や悩み事に、恐れ戸惑うのは仕方のないことなのだから、それを包み隠そうとしても自分を苦しめるだけだ。

悩みのあるときは悩むしかない。

悩みを受け入れる。

仏教ではどうであるか、詳しくは知らないのだけれど、キリスト教では悩むことも恵みだと考える。

何も考えずに、空でいられるときもやはり恵みに違いないのだけれど、むしろ、困難こそを喜ぶべきだと教えているのだ。

悩むことは苦しいし、できればそこから逃げたい。

でもどうがんばっても、どうあがいても悩みは止まないし、肉体の一部になったかのように、それを取り除こうとする方が苦しかったりする。

キリスト教徒はそこで、悩みは神が与えた試練なのだからと、受け入れるのだ。

つまりまっとうに苦悩するのだ。

私自身も経験したのだけれど、苦悩を受け入れると確かに内面の世界観が深まって行く。

それまで感じることができなかったことを感じ、それまで興味をもつことがなかったことにも、関心を向けることができるようになった。

よく俗っぽい言葉で「苦労したひとは、ひとの痛みがわかる」というのがあるが、もちろん、それが必ずしも誰にも当てはまるわけでないし、むしろ、苦労して反対の効果が出てしまうひともいる。

でも、苦悩したことによって、人間性に幅がでるひともいるのは確かで、こういう言葉もあなどれないものがある。

悩み事は、ひとを気づかず成長させているようだ。

しかし、悩むのがいいからといって、なんでもありがたがってはいけないだろう。

悩むために悩むひともいるくらいで、そういうひとは自己卑下や自己憐憫することと同じで、そうすることが快感になってしまっているのだ。

悩みとは、基本的にしても疲れ以外に得るものはない。

どしても避けられないときは受け入れる。

それだけ。

では、また!

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