眠られない夜は誰もが経験する。
つらい。
考えてもしかたのないことを考え、疲労ばかりが蓄積せる。
そして、時に死を思う。
それも、神秘ということはできる。
精神の試練(浄め)は苦痛に満ちているもの。
苦痛によってしか、人間は変わることはできない。
神秘とは苦しみなのだ。
眠られない夜はつらい。
眠られない夜はつらい。
考えてもしかたのないことを際限なく考える。
時間ばかりが過ぎる。
おまけに、眠れないだけ体に疲労はたまっていく。
明日も仕事だ、乗り切れるだろうか、分からない、また考えて眠れなくなる。
ひとは暗闇には弱いようだ。
まっくらな部屋の空気もあきらかな敵意をもって脅迫してくる。
それに対して、こちらは無防備に布団に横になっているしかない。
寝返りをうつ、けれど、まっくら闇はまた目の前にもある。
暗闇はなにもいわない。それがつらい。無言、その迫力。
今日は、眠れなかった。
いや眠ったのだけれど、夜中の二時くらいに目が覚めて、それからまったく眠気がなくなった。
仕方がないから、もう起きることにしてこの記事を書いている。
手を動かして多少、気分は落ち着いたのだけれど、布団に横になっているときはほんとうに苦しかった。
あらためて闇というのは恐ろしいと思った。
私は、スペインのある詩人が好きで、よく読んでいた。
彼は精神の試練を「暗い夜」にたとえて、神秘的に詠っていた。
私は、とんでもない、といいたい気分だ。
闇は耐えられたものではなく、神秘どころか、殺人的な恐怖しかない。
布団を右に左に転がるばかりで、生命力がじりじりと削がれてゆくような感じがする。
夜というのは、おそらくもっとも死に近い時間だ。
小説でも演劇でも詩でも、夜を死に結び付けてよく演出される。
死というのは、不幸で、不幸は暗闇で、暗闇といえば夜だ。
だから、人間は死を見ないために眠ろうとする。
死が寝ているあいだに過ぎ去ってくれることを願う。
眠られない夜の神秘。
いま、窓のそとから鈴虫の声が聞こえる。みな寝静まって人工的な音はいっさい聞こえない。
私は、またスペインの詩人を思い出す。
彼にとって夜は長い浄化の旅を意味していた。
夜になると、あらゆる感覚がとじてゆく。
ものへの貪りや、愛着、そして記憶さえもが、取り去られてゆく。その清めの期間、精神は荒む。
それは神秘なのだ。
だが、眠れぬ夜、彼はどうしたろうかと、思う。どうしても、やりきれない夜、どうしたろうか、と思う。
彼は聖者だった。
いまでも教会の信者たちによってあがめられている。
「聖人」「教会博士」という称号まで与えられている。
眠れない夜、彼はその呻吟のなかで、彼はじっと耐えたろう。
詩は詠わなかったろう。
ただ苦しみを静かに受け入れる。
しかし、それがないとまた詩もないのだ。
人生とはおもしろいもので、ただ苦痛しかなく、まったく無意味としか思えないことが起こってもあとあと、それが利益なることをよくよくあるものだ。
そのときは、絶望しかないし、先のことなどまったく見えない。見えたら絶望はない。
しかし、絶望が時とともに去ったとき、人間が新たにされたように感じる。
問題はなにも変わらないのに、気持ちの持ちように変化があるのだ。
浄化とはこのことだ。
精神の浄めはとかくつらい。
それに浄めともそのときは思うことはできない。
浄めどころか、むしろ地獄を連想させる。
詩人は、この浄化の期間を花畑のような楽園としては描かなかった。
「恐ろしい」といっていたのだった。
私はそれを忘れていた。
神秘というと、つい美しく歓喜に満ちたものを考えてしまうけれど、彼のいう「暗夜」はその反対を行くものだった。
荒みと乾きと飢えしかない。
眠られぬ夜に、出口のない苦痛を感じ、死を思う。朝の光を乞い求める。
では、また!
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