昨日の天気予報では晴れといっていたのに、早朝から曇天だった。
山の方はすっかり霞がかかって、姿が見えなかった。
いまにも雨が降りそうだ。
ユキはあたらしく買ったノートパソコンをひらいてその日の仕事に取り掛かっていた。
しかし、依然と窓の外の景色が気になって、作業に集中できなかった。
夏が終わって、蝉の声は聞こえなくなったが、その代わりに、鈴虫の声を朝早くからも聞くことがあった。
この日の雨を予想してか、虫のリンリンリンというその声は聞こえない。
外からは、遠く離れた国道をトラックが走る音がかすかに聞こえるばかりだ。
ほとんど、音らしい音もなく、窓の外が真空と化しているのではと思うこともあった。
それがユキの息を詰まらせた。
虫の音でもいい、鳥の声でもいいが、何か音色がほしかった。
あまりに静かだと、仕事ができない。
彼女は、エッセイを書いて暮らしていた。日々の雑感やちょっと話題になっているような社会的なトピックをネタに彼女なりの感想を書く。
この仕事を学生のころに初めて、もう六年になる。
文章を書き始めて、それまでの彼女の生活スタイルはすっかり変わってしまった。
もともとは、絵を描くのが好きで、休みになると、スケッチブック片手に街や自然公園などを歩いた。
木々や街並みを簡単に素描して、そのあと家に帰ってクレヨンで色をつけるのだ。
描けば描くほど、景色は身近に感じられた、木々の葉っぱの揺れひとつとっても、自然は魅惑的で、彼女の空想を刺激した。
葉を透かした光を表現するのに苦心し夢中になった。
書く仕事を始めてから、そうした見る景色は遠のいてしまった。
自然を文章でただ描写するだけの仕事はもらったことはなかったし、仮にそんな仕事があっても絵を描くようにダイナミックに表現はできない。
文章はまどろっこしいと常々彼女は思っていた。
そして、書けば書くほど内省的になっていった。
ユキは、この日の仕事を終えると、窓を開けた。
そのころにはもう雨が降り始めていた。しとしとと、雨が地面を打つ音が聞こえる。
彼女が記事を三分の一書き終わったとき、雨音が聞こえて来た。
残りの執筆作業は、そのおかげか、思ったよりはかどった。
鳥でも虫の声でもなく、彼女の予想もしなかった自然の音だった。
雨の音は、彼女にひとつの情景を喚起させた。
それは、図書館に行く日のことだった。その日も雨だった。
彼女はイヤホンであるフランス映画のサウンドトラックを聴いていた。
ピアノだけの静かな孤独な音楽だった。
そのためか、雨の景色が身に迫って感じられた。
住宅街を行く彼女の右手に、坂が見えた。
路面は雨に濡れて、空の暗い光を反射させていた。
路面の光りは、雲がそこに映っているかのようだった。
耳からは、ピアノのリズム早い音が聞こえる。それと伴奏するように雨の音が聞こえる。
坂にひと影はなかった。
まっすぐ勾配を伴って伸びて行き、やがて大通りにぶつかってそれは切れていた。
しかし、路面が光っていたのは、彼女から遠くないほんの数歩間のことだった。
彼女が近づくと、光も逃げて行く。
ユキは、窓を閉めた。雨が本降りになって来た。
彼女はまた仕事の続きを始めたが、そのころには雨が降っていることも忘れていた。
タイプをする音が雨音のリズムの代わりになっていた。
文章はとめどなく進んで行く。
彼女はポーランド紀行と題して、そのとき雨が降っていたかのような情景を書いていた。
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