川沿いの遊歩道で絵を描いているひとがいる。
キャンプ用の小さい椅子に腰かけ、スケッチブックを覆い隠すように背中を丸めている。
いつも派手な色のシャツを着て、そばを通ると、ぷんと汗の臭いがする。
後ろ姿からは分からなかったのだけれど、ある日、買い物の帰りに、彼と二、三度目が合って、それで彼が高校のときの世界史の原先生だと分かった。
先生も私を見知ったようにじろじろと見た。
でも、私はしばらくの間、声を掛けるのをためらった。
先生は学校をどうしたのだろうか、定年にはまだまだ早いので、きっと何か事情があるのに違いなかった。
それからも、私は何度も彼の姿を川のそばで見た。
たいてい黄色いシャツで、赤いときもあった。
そして、買い物の帰り道では、必ず目が合った。
このまま知らないふりをして通すのも、かえって不自然だと思ったので、私は自分の方から声を掛けることにした。
先生の名前を呼ぶと、振り返ったので、やはり間違いはなかった。
「やあ、こんにちは」と先生は、こごもった声を出した。
そして、かなりゆっくりとした動作で、胸ポケットから眼鏡を取り出した。
体の具合が悪いことはそこからはっきりと分かったので、私は声を掛けたのは間違いだったかと、少し、戸惑った。
「やあ、どうも」と、先生はいった。
私は、自分の名前をいって先生の教え子だったと伝えた。
先生は、覚えておられない様子だった。
それでも、先生は「なつかしいですね」といった。一応私の話に合わせてくれているようだ。
「いまはどうされてますか。大学生ですか。みんな勉強ができますからね、あの学校の生徒は」
先生は笑った。顔の動きもゆっくりとしていた。
「いえ、もう大学は卒業しました。いまは、夫も子供もいます」
「そうですか。それはよかった」
先生は、それから何か話そうと考えている様子だった。
私は、先生が絵を好きだったとは知らなかったといった。
先生は、最近始めたばかりだといった。
「けっこう落ち着きますからね。私は長年、トランペットやってたでしょう。だから、芸術的な面での感覚はひとより優れているんですよ」
私は、先生がトランペットをやっていたことも知らなかった。
すごいですね、というと、先生はまた何か考えているかのように長い緘黙に入った。
私は、またこんど絵を見せてくださいね、といって先生のそばから離れた。
振り返ると、先生は私がまだそこにいるかのように、さっきと同じ体勢のままだった。
それから、先生の姿を見ることはなくなった。
先生の絵を見たいといったのは、私の本心からだった。
私が覗いたとき、先生はあたりの風景の特徴をおおまかな線でちゃんと描写していた。
それは先生の黒板の使い方と似ているようだった。
先生はいまどこにいるのだろう。
川も遡ればすぐに山に入る。鳥の声。先生の鉛筆を削る音。
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