静かに生きようとするひとは、たいてい真面目なひとだ。
真面目なひとはたいてい努力家で、小さなことをコツコツ積み上げるのが好きだ。それは良い。
でも、努力というのはそれ自体快楽で、これに盲目になると、静かに生きられない。静かさとは貧しさのことだ。
静かな生活は迎えるもの。
ついこの間、静かに生きるのは難しいという記事を書いた。
外見上は大人しくつましい生活をしていても、頭のなかは色々な考え事でいっぱいで、かえって忙しく働いていたときよりも、混乱しているということもある。
静かに生きるのも、心がけがいる、努力がいる。
で、そんなマイナス面を強調したあとだから、今日は静かに生きるもうちょっと具体的なことについて考えていきたい。
努力がいる、ということを能動的と言い換えたとしたら、いまから書いていくのは受動的な部分。
結論からいうと、静かな生活というのは、そう心がけると、向こうからやってくるということだ。
努力だけでどうにかなることではない。このあたり、キリスト教に似ている。
聖書は、信者の努力を促しているが、一方で努力だけではどうにもならないことを示している。
パウロの書簡集は、全編を通して、努力の必要性を説いている。一方で、イエスは「貧しい者は幸いなり」と説いた。
この貧しい者というのは、単に貧乏という意味のものではなくて、「霊的に貧しい者」という意味で、力の及ばない者、無力を知る者のことを指している。
無力なものは、神により頼むしかない。そういうひとは幸い、天の御国はそのひとのものと書いてある。
ここで、キリスト教の説教をするつもりもないので、このあたりでやめるが、静かな生活、言い換えれば平穏を得ようと思ったら、努力だけではやがては行き詰るということは、聖書の世界観と共通するものだ。
静かに生きようと心がけるひとは、たいてい真面目だ。静かに暮らしたいといって、だらけた生活をするひとはあまりいないだろう。
小さなことをコツコツと積み上げるのが好きで、ちょっとしたことに幸せを感じたい、そういうひとが静かな生き方に入っていく。
私もそうだ、といえば、いかにも、自慢しているようで、なにかポジショントークを思わせてしまうが、私の場合、真面目さが裏目に出てしまうことがあって、それによって周りに迷惑をかけることがしばしばだ。
自分を必要以上に追い込むので、知らず知らずのうちに体調を崩す。静かな生活をしようと思っているのに、まったく反対の結果になっている。
努力というのも、執着になる。努力はそれ自体、快感なのだ。
旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書物があって、そこには「なんという空しさ、すべては空しい」と人生の無意味さを嘆く言葉があるのだが、そんな虚無的な人間の生を快くするには、労働が必要だと説いている。
つまり努力せよ、ということだ。
人間は、この世界がつまらないから、努力してそれで快感を得て、盲目になろうとするのだ。
それはそれで良い。聖書にある通り、間違っていない。
しかし、それが行き過ぎると、努力している自分だけが正しくなる。ワーカホリックとは貪欲の一種だ。ここに貧しさはない。貧しくなければ、静かな生活はないし、盲目的に努力をしている限り、生活は騒がしい。
私は、散歩をするのが好きで、一時間くらいかけて、広い公園をぐるっと散歩をするのだけれど、散歩がうまくいったと思う日はほんとうに少ない。
うまくいくというのは、「静けさ」を得たという意味なのだけれど、それを得ようと必死になっていると、そういうものは実感できない。
「静けさ」というのは迎えるもの。静けさはいつもそこにあって逃げはしないが、こちらが忙しい人間だと、単にそれに気づけないのだ。
迎えるだけで良い、あとは「静けさ」のほうが仕事をしてくれる。
では、また!
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