夏に蝉の声を聞くと、郷愁を誘われる。

エッセイ

夏に蝉の声を聞くと、古い日本を思い出す。

日本的な感性が自分のなかに育っていることを悟る。

郷愁。

伊東静雄は若い学生に「蝉がきらいなら日本の詩人にはなれませんね」といった。

私はとくにひぐらしの声を聞くと日本的な寂しさを感じる。

ひぐらしの声に古い日本を感じる。

盆になると夕暮れ、ひぐらしの声が聞こえる。

あぶらぜみも寝静まり、鳥の声もなくなって、ひぐらしのかなかなかなという声が森々と響く。

かつて大阪に住んでいたとき、この静かな音を聞いたことはなかった。

ひぐらしは、大阪のような都会は嫌うのだろうか、夕方よく近所の緑地公園を散歩していたのだが、そこでかなかなかなという声を聞いた記憶がない。

ネットで調べると、ひぐらしは山すそなどの薄暗い環境を好むらしく、光の多い都会には生息していないのだそうだ。

私は三年まえに奈良県の香芝市に引っ越したのだけれど、ここは大阪とは比べ物にはならないくらい緑が多い。

遊歩道には必ずといっていいほど並木があるし、隣町まで行くと鬱蒼と森林が広がる古墳の公園もある。

山すそでなくとも、木陰はいたるところにあり、そうした環境がひぐらしには適しているのだろう。

三年前、初めてひぐらしの声を生で聞いたとき、私自身のなかにも田舎の古い日本への郷愁が生きているのに気がついた。

私は懐古主義者でもないし、日本の古い文化に強い関心があるわけもないのだけれど、ひぐらしの声に感じるものがあるところ、やはり日本的な感性はまっとうに育っているということだろう。

ついこの間、伊東静雄の詩を読んだ。

ほんの数ページ試しに読んだだけなので、記憶が定かではないが、確か、蝉についての軽い問答があった。

蝉の声が嫌いだという若い学生に、伊東が「それでは、日本の詩人にはなれませんね」と返すのだ。

蝉はもちろん外国にもいるだろうし、そういうものを描写した文学作品もあるだろうが、伊東のいうように蝉に感じ入るのは日本人くらいなのかもしれない。

そういう意味で、私は蝉から特にひぐらしの声から、自分が日本人であると発見した次第だ。

詩的な蝉の声。

今年(2021年)の夏は、夏らしくなかった。

梅雨は八月まで続いて、八月も半ばまで来ると、また雨続きだった。

からっと晴れた日など、数えるくらいしかない。

天気が良くないと、蝉も大人しくなる。道を歩いていても、部屋で何か作業をしているときも、蝉がうるさいと感じたことは、今年はなかった。

異様に静かで不気味なくらいだった。

夏、蝉の声を聞くと余計に暑く感じられうっとうしく思うこともあるけれど、なければないで寂しい。

蝉はうるさい、暑苦しい、でも私は嫌いではないのだ。

暑いのは苦手だけれど、夏を感じたいという思いもある。

そういう意味で私も日本的な詩人にはなれる素質はあるのかもしれない、まあ冗談だけれど。

私はいまスペインの古い詩人の書いた書物を読んでいる。

彼は、信仰の神秘を夜に例えて、その苦しみを愛した。

彼は自然を神でないものだからと遠ざけるのだが、自然の美もまた彼の賛美の的だった。

自然は美しかった。

そんな彼が日本にいたなら、彼は日本の自然を愛しただろうかと、私は考える。

もちろん、日本の自然を愛し、それを詠っただろう。

そして蝉の声に、とくにひぐらしの声に感じ入り、そこに神秘の夜の見出したことだろう。

はかない美。いや美はすべてはかない。スペインの夜はここで、日本の静けさとなる。

しかし、今年の夏らしくない夏には、この詩人もがっかりとしたのではないか。

雨ばっかり、蝉の声がない、暑くもない。

もっとも彼は不平など言わないだろうが。

あるいは彼はこういうだろうか「過去も未来も存在しない。いま夏がある」

では、また!

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