自分の将来について深刻に悩んでいても、実際は単なる暇つぶしであったりする。
でも、悩んでいるときはそう客観的に見られないし、たいそうな悩みでないと薄々気が付いているときでも、悩みの力におされてしまうことがある。
しかし、案外そういうものはコーヒーが解決する。
深刻な悩みなの?
予定よりだいぶ早くに目覚めてしまうときがある。
そんなとき、たいてい私は、自転車を走らせてマクドナルドまで行く。
今日も目覚まし時計の鳴る時刻六時であるのに、三時半に目が覚めた。
外はまだ暗夜で、窓を開けると、空気はむっとして湿っていた。
夜空は、暑い雲に覆われて星ひとつなく、いまにも雨がふりそうだったが、天気予報は曇りとあった、降水確率も三十パーセント以下、私は外出の用意に取り掛かった。
しかし、外に出ようという段になると、急にふさぎの虫がやって来て、私は自分の宿痾のようになっている「お悩みごと」に浸ってしまった。
どんな悩みか、いつものやつだ。
「私は小説を書くべきか、書かずにいるべきか」前のブログでも書いたのだけれど、私は真の作家しか存在しなくても良いと思っている。
つまり、他人の真似事しかできないような二流の作家はいらないというわけだ。
私は、自分の文章が他人におうことが多いことを嘆き、もう書くべきではないと考えた。
でも、こんな悩みは、高尚なようにも思えるのだけれど、実際は、単に暇を持て余しているのではないだろうか。
私は、自分が果たして書くべき作家かどうか判断に迷っているのだけれど、迷ってさぼろうとしている時点で、真の作家ではないだろう。
そんなら、さっさとやめちまえ馬鹿、と自分にいってやりたいが、とかく何か書かなくては、私は自立した生活ができなくなる。
いかにも屁理屈くさい悩みのほうがどうでもいい。背に腹は代えられない。
ああ、なんとさもしい作家だろうか。
コーヒー一杯ですべて解決する。
で、そんなこんなで暇をつぶした後、自転車をこいで大和高田のマクドナルドに行った。
私はカフェイン断ちの生活をして長いのだけれど、この日は眠気さましにアイスコーヒーを飲むことにした。
カフェインの力はすさまじく、それで悩みのために憂鬱であった気分がほんの二三口で醒めてしまった。
私はチェーホフの小説と佐々木基一のチェーホフの解説本とを持って行ったのだけれど、マクドナルドの二時間の読書はまさに幸福だった。
チェーホフは重厚ぶったり、深刻に構えたりすることを嫌う作家だけれど、この読書で私のついさっきまでの悩み事も喜劇のように思えて来た。
たった一杯のアイスコーヒーですべて解決してしまう悩みなど、ほんとうに悩みといえるのか。
二十代のころも、人生を悲観して、死にたい、死にたい、とつぶやいていたときもあったのだけれど、そんなノイローゼ気味な気分も牛丼を食って缶コーヒーを飲めば、雲散霧消してしまった。
それこそなまじひとの優しい言葉や、慰め、気遣いなんかよりも、缶コーヒー一杯のほうがよほど効き目は大きいようだった。
私という人間が持つ問題は、深刻でも複雑でもなく、高尚なわけでもなくて、コーヒーですべてが解決できるほど、軽いのではないか。
いや、私に限らず、どんなひとの一見重大に見える事柄も、ほんのちょっとの動作で解決するのではあるまいか。
もちろん、これはすべてのことに当てはまることではいし、生き死にの問題を抱えているひとにまで、気安く自分の感想を適用しようと思わないのだけれど、私たちは、失敗しても傷ひとつつかない問題にさえ「生き死に」にかかわることのように誤認することがあまりに多いのではないか。
私の場合、マクドナルドでコーヒーを飲めば、自分の問題の軽重はすぐ分かる。
では、また!
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