自分自身に苦しむときもある。認識のズレ、誤解されやすい性格。

エッセイ

自分自身の特徴に苦しむことがある。

私は、自分に認識のズレがあるために、他人とうまく接するとこができない。

しかも、その責任を自分に負わせても、問題を解決する能力が私にはない。

もう苦悩を受け入れるしかないようだ。

ゴッホが自分の個性を受け入れたように。

自分の特徴のために苦しむ。

小林秀雄が、ゴッホは自分の個性ゆえに苦しんだ、というようなことをいった。

私は、その講演のCDを聴いたとき、まだ二十代の前半で、いわれている内容について深く理解していなかった。

そもそも個性というのがあまりピンとこなかった。

それからしばらくたって、ある事情によって不幸がみまったとき、私は自分がしんどいと思うようになった。

もっともこれは、個性ゆえに苦しんだゴッホとは事情が違うかもしれないが、自分自身の特徴ゆえ苦しんだという点では、よく似たところもあるだろうと思う。

不幸とは何か、簡単にいってしまえば、私の体調不良となるのだけれど、問題の根本は私がものごとをよく誤解することにあった。

私は、ある事柄が起こったときにそれを正確に把握することが苦手なのだ。

例えば、あるひとと話をしていて、話が盛り上がってきたら、私はそのひととすぐに友達になったような気がする。

しかし、相手はもちろんまだ会ってまもないひとと友達になったとは思はないから、私のなれなれしい素振りをみて面食らってしまうのだ。

ほかにも、嫌味をいわれているにも関わらず、それを誉め言葉と受け取って、相手をかえって困らせてしまうこともあったり、こちらは軽い冗談つもりでいったことが相手に対してひどい侮辱なっていたりとするようなことがけっこうな回数で起こる。

私は、自分に認識のズレというのがひとよりも大きいことに最近になってよくよく気づくようになってきたのだけれど、そうして自分の特徴に気づき出すと、自分自身がしんどいと思うようになった。

私は、私自身に対処ができないし、他人もまた私に対処はできない。しかも、逐一、それを私は私自身の責任として考えなければならないような気がしている。

問題の原因は、私が誤解されやすい性格にあり、私の誤解しやすい性質にあるのだから。

苦悩を受け入れる。

自分がかなり変だと気がついて、一番困ったのは、何でもすべての原因を自分のせいだと思ってしまうところだ。

まだ自分が一般の多くのひとと変わらない人間だという思い込みがあったとき、何か軋轢が起きても、私は相手が悪いと思っていた。

あるいは、相手がちょっと変わり者なのだと思っていた。

それが、あるときから徐々に世界が反転しだした。自分が正しいと信じていたことがまったくの間違いだったのだ。

私は、自分を責めて、自信を失ったし、それで今現在もひととうまく付き合えないでいる。

これも私の変わり者ゆえの苦しみなのだけれど、さらに困ったことはこれに対処のしようがないことだ。

認識にズレがあるということは、思考にもそれ相当のクセがあるもの。相手を誤解したとき、それを改善しようにも、思考そのものが現実を掴めていないので、自分で努力したところで、またおかしな結果になってしまう。

あ、失敗したと気づいても、正しい方法が永遠に分からないのだ。

それでまた自分を責めて負のスパイラルの陥ってしまう。

しかし、後悔しようが自分を責めようが変えられないものはずっと変わらないもので、残されたできる仕事は自分を受け入れることだけだ。

ゴッホは自分の個性ゆえに苦しんだ。

もちろん私はゴッホではないので、ゴッホのような苦しみは味わえないが、私も私自身を受け入れて苦しむことはできる。

苦しんでも確かに碌なことはないように思うが、まったく苦悩がないよりよほど幸福だろう。

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