「すべてのことがめんどうくさい」とphaさんのブログにあった。
これは私のような真面目人間にはなかなかいえないものだ。
真面目人間は「がんばる」とかその反対のことをいいがち。
「めんどうくさい」とは自然になるための言葉だ。
無理をしない、あるがまま。
「めんどうくさい」は自然に通ずる。
だるい、めんどうくさい、もう何もしたくない、そんなふうにいってみたくなるときがある。
で、実際いってみるのだけれど、私のような真面目人間がそうしたところで、空を切るようでなんの効果も感じられない。
しかし、それは才能がないからではないのか、いや、努力が足りないのではないか、めんどうくさいといってそれが身に染みるようになるにはそれなりの過程が必要になってくるだろう。
先日、たまたまphaというブロガーさんのTwitterをのぞいた。
プロフィール欄にいきなり「すべてのことがめんどうくさい」と書かれてあった。
堂々と臆面もなくそう書いてある。
これはすごいと私は思った。
このひとはきっと「めんどうくさい」の素質があるひとだと思った。
Tweetの内容も、脱力系の典型で、意識高い系にありがちなしゃっちょこばったところはいっさいなかった。
自然、すべては自然だった。
すべてがめんどうくさくなると、それは自然に通じるのかもしれない。
先に、めんどうくさいという言葉を生きるには、才能や努力がいるのでは?と書いたが、それはしゃかりきに体に苦痛を与えてするようなものではなくて、きっと禅的なものなのだ。
ただ座る「只管打坐」。
つまりめんどうくさいとは、ただ「めんどうくさい」というだけなのだ、そして、あとは吐いた言葉に任せるのだ。
PhaさんのブログやTwitterを見てそう思った次第だ。
真面目人間は「めんどうくさい」とはいえない。
真面目人間は、なかなかめんどうくさいとはいえない。
「めんどうくさい」は至言、そう教えられても信じることはできない。
めんどうくさいは、負けであるような気がする。
真面目とはどういう人間なのか。デジタル大辞泉にはこう書いてある。
うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。またそのさま。
真心のあること。誠実であること。またそのさま。
デジタル大辞泉
とあり、いかにも良いひとのようだ。
私も真面目人間なので、このようにいわれると、少し照れ臭くなる。
しかし、同時に真面目人間は面白くないだろう。
話をしても、硬い話ばかりで、聞いている方は肩が凝ってしまう。
嫌気がさしてくる。
「めんどうくさい」といってくれと思う。
しかし、真面目人間は、脱力系の語彙には乏しく、「めんどうくさい」というかわりに「がんばれ」といったりする。「誠実」といって顔を輝かせたりする。
彼が「すべてがめんどうくさい」というにはどうすればよいだろうか。
それはもう失敗するしかない。大失敗をしでかして、ぼろぼろになるしかない。
誰でもそうだけど、順調なときは自分を変えようとは思わない。「頑張っている俺」が正しい。
だが、一度病気でもしたなら、「めんどうくさい」のありがたみというか、そういう言葉の効力を身に染みて感じることができる。
「めんどうくさい」そういって自然になっていく。
無理をしない、あるがままになっていく。
こんなときつくづく思う、人間っておろかだな、失敗しないと気づかないのだ。
では、また!
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