芸術家の孤独。孤独は芸術の親、それに信頼する。

エッセイ

芸術家はみな孤独だといわれている。

詩人のリルケは、若い詩人へのアドヴァイスとして、孤独になるようにすすめた。

自分を誰かと比べるのをやめよというのだ。

これはシンプルだが難しい。たいていのひとにはできない。

しかし、孤独というのは芸術家の親、こちらが信頼すれば応えてくれる。

孤独以外に慰めを求めない。

芸術家はみな孤独だといわれている。

確かに、ゴッホもセザンヌも、あるいはトルストイもドストエフスキーも、みな孤独に生きたし、そして、死はだれもがそうであるように、彼らも孤独に死んで行った。

リルケに至っては、孤独にもっと意識的だった。

しかし、孤独とはつらいものだ、厳しいものだ、耐えられそうにないときもある。

芸術家は、そのときどきに新しく内から生まれる孤独を受け入れて行かなければならないようだ。

孤独に慣れることはない。何かでごまかしているつもりでも、孤独は常に隣にいる。霧のように時間が経てば消えてなくなるということはない。

私はひところ、リルケの手紙に熱中した。詩も少し読んだが、繰り返し読んだのは、手紙くらいなものだった。

だから、リルケについて私が知っていることといえば、新潮文庫で出ている、若い詩人に宛てて書いた手紙にあることに限られていて、あまり偉そうに知ったような口を聞くことはできない。

それでも、リルケには不思議な魅力があって、たとえ彼の言葉をわずかしか知らなくても、しばらくは、彼のこと以外は考えられなくなってしまう。

とくに孤独を求めているひと、否応なく、孤独な状態に置かれているひとにとっては、彼のシリアスな言葉はそのまま自分のことを語っているかのような印象を持つ。

私はこういう読書経験はめったとなかったことだった。

それ以後に十字架の聖ヨハネの神学にも同じような体験をしたが、リルケは私にとってはその初めての体験だった。

リルケが手紙のなかで語っているのはごくごくシンプルなことだ、「孤独になれ、それ以外に慰めを求めるな」少なくとも、詩人であるためには、芸術家であるためには、孤独から逃げてはいけない、そのなかに入っていかなければならない、そこに深く入るほど、世界は広いのだ。

私がこの手紙を読んだのは、二十代の前半だったろうと思う。

そのときは、リルケがいっていることが自分に関係あるものとは思えなかった。

そのころ、私はいろんなものへの貪欲におぼれていたので、自分が孤独であるとは気づきもしなかった。

作家や芸術家を目指すひとは多いと思うのだけれど、孤独を求める人はほとんどいない。

みな夢を求めて、夢の中に埋没している。野心といってもいいかもしれない。

リルケは手紙の中でこういっている「あなたは雑誌に詩をお送りになる。ほかの詩と比べてごらんになる、そして、どこかの編集部があなたのご試作を返してきたからといって、自信をぐらつかせられる。では、私がお願いしましょう、そんなことはいっさいおやめなさい(高安国世訳)」いたってシンプルなことしかいっていない。

ひとと比べるのはやめて、自分のなかに入っていきなさい。

シンプルなことほど難しいとは、ミニマリストの言葉を借りずとも、みなが知っていることだろう。

そして、たいていのひとはできない。私もできなかった。私も野心でいっぱいだった。

しかし、一方で私はそれでも良いと思っている。

というのも、孤独とは向こうからやって来ることもあるからだ。

こちらが野心を燃やしていても、こちらが意図しない形でそれが取り去られることはある。

孤独は芸術家の親であることは間違いない。

子である芸術家は、親を信頼することしかできないし、むしろ、それだけやっていればいいんだろう。

真の親は、子に対していつも誠実だ。

そして、孤独という親は子に、誠意をつくしてくれる。

では、また!

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