文字コンテンツは、オタク向けに作ること。

エッセイ

文字コンテンツはもう大衆受けするものではなくて、オタクが読むものになった。

昭和のように本が娯楽であった時代はもう訪れない。

本を多く売るという発想から抜け出す必要がある。

大衆ではなく、濃い読者、オタクにン向けてコンテンツを作ること。

読まれなくなった本。

電車のなかで、本を読んでいるひとは少数派だ。

最近になってからそうなったわけではもちろんない、私が高校生のころ、携帯電話が普及し始めたときに、もう若いひとは本を電車で読まなくなっていた。

携帯をいじるか、ほかにウォークマンで音楽を聴くか、そうでなければ寝ているしかない。学生で本を読むのは、ちょっとオタクっぽいひとに限られていた。

スマホが普及してから、この傾向はより顕著になった。スマホは、携帯電話とは比べものにならないくらい、コンテンツが充実している。

動画、音楽、ラジオ、小説、もはや街といって良いくらいエンターテイメントのすべてがそろっていて、いまさら分厚い本を持ち歩き、電車のなかで開いて読むなんてことはいかにもかったるい。

本もいまではスマホで読める。紙の本の需要は、これからさらに減退するだろうことは、電車内の風景を見れば一目瞭然だ。

現に私はいまこの記事を電車のなかで書いているが、満員電車のまわりを見渡しても、本を読んでいるひとは私の前に立っている中年男性たったひとりだ。

よく電車に乗る私でも、高校生や大学生が電車で本を読んでいるところを見ることはほとんどない、いや、まったくない。寝ているか、スマホをいじっているか、どちらかだ。

また、本屋で若いひとの姿を見ることもない。私は三十代だが、私と同年代のひともあまり見かけない。

私は小説のコーナーによく行くが、たいていお客さんは、四十代以上のひとたちだ。本屋は、あきらかに若いひとの支持を失っている。

文字コンテンツはニッチなもの。

本がスマホに取り込まれるようになって、紙の本は読まれなくなった、と私も考えていた。みな電子書籍で読んでいるのだ、そう思っていた。

そうではなくて、本というものが、もう一般的ではないのだ。読書はもう一部のオタクがするものになっている。電車のなかでみな何をしているだろう、動画を観て、ゲームをして、LINEを返している。本などかったるくて読んでられない、昭和のように本が娯楽であった時代は、石器時代のように昔に遠のいた。

しかし、これは現実のこととして、受け入れなければならない。読書=オタクという式は、これからもっと単純化されて、典型化されるだろう。

しかし、私はそれでも良いと思っている。この式が単純化されればされるほど、濃い読者は残るのだ。ブログもそうだが、文字コンテンツとは、ニッチに訴えかけるものだ。

依然として紙の本が目指しているのは、大衆であり、ある程度の量が売れないと商売が成り立たない。ここにジレンマがある。紙であれ、電子書籍であれ、読み手はオタクだ、濃い読者だ。

広く読まれようという発想から抜け出す必要がある。本の作り方も、流通システムも、これからは小規模化するだろうし、そうならなければならない。

多様性は、言い換えれば多極化で、小さな中心がたくさんあってよく、大きなシステムではフィットしない。

一方で、個が強くなるのだから、発信力さえあれば、規模は小さいとも生き残ることができる。とくに書き手は、書いたものを出版社に丸投げするのではなくて、自分で発信もしていく、そうすることで、作品が読まれる機会を増やしていく。作家のスタイルも変化を迫られている。

ではまた!

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