ブログで、一年近くエッセイを書いて来たのだけれど、始めのころ、やはり苦労は多かった。
エッセイには型というものが、ないようでいてあるのだ。
特に、初心者は悩み事エッセイをやってしまう。手近なところに題を求めるとそうなる。
しかし、型はある。型を体得するにはそうした失敗も必要。
エッセイの型を自然に体得するには、失敗も必要。
もうかれこれ、一年近くブログを書いているのだけれど、アフィリエイトなんててんからやる気がなかったので、もっぱらエッセイばかり書いた。
エッセイはいい、スタイルは自由、はっきりいって、テーマもあってもなくてもいい、そのときの気分で書きたいことを書けばよいだけの話だ。
でも、この一年間、いろいろありながらもエッセイをやってきて、やはり先に書いたようにふっきれた思いになるまでに、それ相当の努力は必要だった。
村上春樹もいっていたけれど、エッセイは難しいのだ。村上さんが何といったか詳しいことは忘れたけれど、私の体験からいうと、エッセイにも型というものがないようでちゃんとあり、それを体得するのが難しいのだ。
例えば、読みやすくするにはどうするか、とか、自分の悩み事は語らない、とか。特に、エッセイを書き慣れていないひとは、悩み事をやってしまう。分かっているつもりでも、悩み事を日記のように書いてしまう。それでも本人がこれはエッセイだといってしまえば、エッセイにはなるのだけれど、はっきりいって、価値のないものだ。
おそらく、若いひとほど、この悩み事エッセイをやってしまう。若いひとがなぜにこうも悩みが多いのか分からないが、とにかく手近なところで、書くものを探すと、悩み事がもっとも手っ取り早い。
ブログ界隈では「思考停止」という言葉で、戦略や反省がないひとをそのように揶揄したりする言葉がある。悩み事エッセイをやってしまうひともいってみれば思考停止で、エッセイがどういうものかちゃんと勉強していないのだ。
実は、私も悩み事エッセイを始めのころやってしまった。そればかりか、自慢話エッセイもやった。考えずにやってしまうと、どうしても、そんなところに落ち着くのだ。いまでは、そんなエッセイは大方削除してしまったけれど、思い出しても恥ずかしい。
でも、失敗から学ぶということは、他の例にも漏れずやはりエッセイにもあてはまって、とかく、ゴミみたいなエッセイもたくさん書かないことには、悩み事エッセイから抜け出る方法がまず分からない。
悩み事エッセイがいけないからと、意識して、他人が書いた上手なエッセイを真似てみても、必ずぎこちなくなる。がちがちに力んだ格闘技のようになる。
これもどこかのエッセイに書いたのだけれど、エッセイには型がないようでもやはりあるのだが、その型を意識もせず、呼吸の域まで自然に自分のものにするには、どうしても量が必要になってくるし、そのためには、失敗もたくさんしなければならない、また難しいのが、失敗に寛容でなければならないということだ。
「間違ってはいけない」という思い込みでエッセイを書くことほど苦行はなく、そういう思いでいるほど、間違いは多くなる。このあたり、ちょっとスポーツをやったひとなら、分かるだろう。
村上春樹は、小説の執筆をスポーツに例えて、実際に彼はトライアスロンなどし、体も鍛えているけれど、なにもそれは、文学には体力がいる、ということだけでもないだろう。
スポーツも一種の行だ。力の入れ所というものがある。もちろん、小説、エッセイにもそれはある。文学も行なのだ。身体的なのだ。
エッセイを呼吸するように、と書いたけれど、呼吸も身体的なこと。身体はバランスで成り立っている。しかし、バランスを意識すると、バランスは崩れてしまう。
ここが難しい、おもしろい。
では、また!
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