先輩作家を先生とする。
作家を志したひとなら、何を書くかと同じくらいに何を読んだら良いのかと、頭を悩ませたことが一度や二度はあるかもしれない。
乱読かそれとも、ひとりの作家に集中すべきか。
私は、昔から作家にも専門性が必要だと思っている。
二十代のころ読んだ作家に、遠藤周作がいる。彼は生涯、フランソワ・モーリアックを追いかけた。
カトリック作家として彼は、小説の方法論から生き方までその範を先輩に求めた。
ほかに私は村上春樹も熱心に読んだ時期があった。彼はフィッツジェラルドから長く知的教養の糧を得ている。
海外の作家では、私はレイモンド・カーヴァーをよく読んだ。カーヴァーもチェーホフを生涯の先生として生きた。
私が好んだ作家はたいてい何かしらの師がいて、言いかえればそれは、それは専門性ともなるものだ。
私も、作家となるために専門を持つことにし、そうして数年ひとりの作家とその周辺の作家の作品を読むことに過ごしたが、経験からいうとこれは、やたらめったら乱読するよりはだいぶ効果がある。
遠藤周作も、読書は作家の個人全集でやるように、と読書論のなかで述べている。乱読は、精神を荒廃させるともいっている。
作家の専門性とは、知識をつなげていくものでは、必ずしもなくて、ある好きな作家がいるなら、その世界観を共有し生きていくことだ。
つまり「淫する」ということ。「淫する」世界がある作家は強い。
文豪がみなそうであるわけではないけれど、例えばドストエフスキーも激しく「淫する」作家だった。
この性質がなければ彼はもっと早くに破滅していたことだろう。
では、また!
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