三度の飯で昼食が一番好きだった。そのため、田野瀬は外出を午後まで待って、それまでの時間を読書や他の患者と将棋をしたりして過ごすのだ。
この日も、食堂に一番早く現れたのは田野瀬だった。いつもの窓側の席に座り、食事が届くのを待つ。
一応、時間つぶしにと文庫本を持っては来ているが、食事のことが気になって集中できない。彼は不安でもあった。もし、自分のぶんがなかったらどうしよう、もちろんそんなことはないが、一度そんなことを考え出すと、とりつかれたようにそればかりを考えるのだ。
窓からは、庭の木に、花が咲き出しているのが見える。けれども田野瀬は、一瞥しただけだった。
食堂に桑原さんがやってきた。彼は六十歳くらいのひとで、長く伸ばした髭は白くなっている。いつも分厚い本を持ち歩いて、難しい顔をしているが、話せば気さくなひとで、むしろ、話好きで、ひとりで延々しゃべることもある。聞いているほうは、席を立つにもタイミングが見つからず、迷惑するくらいだった。
桑原さんは、通路を挟んで、田野瀬の隣に座った。広い食堂で、ほかに患者がいないにも関わらず、桑原さんは田野瀬の隣を選んだ。
けれど、彼は、田野瀬と話をするのでもなかった。いつも持ち歩いている本を広げ、読み始める。
以前、その本のタイトルを、田野瀬は盗み見たことがある。確か「東方キリスト教の歴史」とあったように記憶している。桑原さんは自分のことを神学者といっていたが、案外、嘘でもないかもしれない。
田野瀬はでも、桑原さんの方を見ないようにしていた。目が合うと、長い話に付き合わされるからだ。
食堂には、ちらほらと患者が集まり始めた。
女性患者の浅川さんも見えた。彼女は、美人だったが、それを隠すように、縁の太い、大きな眼鏡を掛けていた。大学院生らしいが、そのくせ、トランプをしたり、漫画を描いたりして、勉強している姿をみたことはない。自分の病室ではそうしているのかもしれないが、もちろん、そこまで田野瀬も探る気もないし、できないものだ。
浅川さんは、桑原さんの前に座った。もちろん、桑原さんも本を閉じて話を始める。「知ってますか、ヤコブ教会。ヤコブ・パラダイオスという英雄がいましてね、その教会は彼の名前なんです」そんなふうに前置きもなく始める。
浅川さんは黙って聞いている。
彼女は本に手を伸ばして開こうとし、桑原さんは慌てて両手で弧を描くようなしぐさをするが、浅川さんはお構いなしに、大きなその本を自分のもとに引き寄せた。
「桑原さんて、東方教会の司祭ってことないですよね」
浅川さんは、抑揚のない声でそう訊く。そのため、聞く方は責められているような気さえするものだ。
「司祭は結婚できる教会とできない教会があるんですよ。結婚できる教会でも、立場によっては結婚できない場合もあるんですよ。結婚を禁じているわけではないですが、禁じていると受け取るひともいるようですね。そういうひとは悪魔的に解釈するのです」
桑原さんは話す。話はもちろんそれでは終わらなかったが、浅川さんはお構いなしに本を読み始める。桑原さんは慌ててしまって声が大きくなる。
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