カフェインをやめてみたことがある。
人間にとって一番の苦痛は、好きなものを手放さなければならないときだ。
私にとって、コーヒーは最愛の妻のようなものだった。それだけに距離感が保てなかった。
しかし、短期間であっても、カフェイン断ちをすると、それとの向き合い方は変わった。
カフェイン断ちはつらい。
ミニマリストの例にならわずとも、何かを捨てるということは、何かを付け加えるよりも難しい。
私は、二十代の一時期、本を集めることに非常に固執して、家の中にどんどん読まない本が溜まっていったことがあった。
部屋もそれほど広いわけではないので、溜まれば溜まるほど、生活の場が息苦しくなる。
本を買うのを控えなければならないと分かっていても、本屋に行くとなると、長い悩みの末、本屋を出るころには、必ず、文庫本一冊を手に持っているのだ。
これも、本屋の代わりに、図書館を利用するようになって、だいぶ買う本については、制限を設けることができるようになったけれど、それでも誘惑はあって、それなりに苦労も多いものだった。
同じことがダイエットにもいえる。ダイエットも、捨てることだ。
まず、間食を一切断たなければならない。
しかも、本を制限することよりも、ダイエットの方が、困難は幾倍もすさまじい、本はいってみれば、なくても、生命は維持できるし、読むこと、買うことについての快感は瞬発的なものではないし、実感もあってないようなものだ、それに比べ食べ物にはすぐに体は反応する、体は瞬時に幸福を実感し始める。
人間、快感には弱いものだ。食事の規制ほど、苦痛なものもない。
私は、カフェインをやめたことがある。
といっても三か月ほどだったので、何の自慢にもならないが、特に、始めの二週間は、ダイエットにも似て苦痛で、これをしのげたことは、あとあとの自信にもなっている。
ダイエットが苦しいのは、先に挙げたように、食べることは、ひとの快感、幸福感にも直結しているからで、これと同じく、カフェインも、摂取することで、ひとによってはアルコールに等しいような爽快感を得ることができる。
私は、コーヒーの香りや味が非常に好きなのだけれど、一方で、この爽快感のとりこになっていた。一日、三杯のコーヒーさえ、あれば、恋愛も出世も友情もいらないと思うほどだった。
でも、同じころに寝つきが悪くなっていて、それが日中のパフォーマンスにも影響が出ていたので、見直さなければならないと思っていた。これ、明らかにカフェインが原因だった。
世の中、好きなものを遠ざけることほど、苦痛なものはない。好きなひとが去っていくと、心が病んで、寝込むひともいるらしいが、私も愛しいコーヒーを手元から、離さなければならなかった。俺は、自分の道を歩まなければならない、君とは一緒にいられないんだ。
そんなわけで、カフェイン断ちをしたわけだが、一か月、二か月と、愛するひとに捨てられたわびしい男のように、一日中、私はコーヒーのことについて考えていた。
後で調べると、カフェインには離脱症状というものがあって、これを発症しているとき、体は激しくカフェインを欲するのだそうだ。
私も例にもれず、愛しいカフェインを渇望した。
先にいったように、ともかくも、私はカフェインとの別居生活は続けることができたのだけれど、結局は、もとのさやに戻ってしまった。
でも、私たちの関係性は変化した。一日三杯のコーヒーが一杯になって、ほどよい距離感を保てるようになった。
共依存の夫婦ほど危ないものはない。私も、コーヒーにあまりに、執着が大きかったのだろう。それがなくなって、よく眠れるようになった。
夫婦の別居が関係にときに効果的なように、食物との距離感もときどきは考えないと。
では、また!
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