雨の日は嫌いじゃない。しとしとしと。気持ちを落ち着かせる。

エッセイ

雨の日が嫌いでなくなったのは、つい最近のことだ。

それまでは、雨の日の不便さにばかり目が行っていたけど、いまは、その細かい変化にも気づくようになってきた。

雨の音は、気分を落ち着かせるし、雨の景色もそれとして美しい。詩的。

歳を重ね、雨が嫌いでなくなった。

庄野潤三のエッセイで、以前は夏が好きであったが、歳を経て冬が好きになったというような文章を見つけた。

ひとは、年齢とともに好みも変わってくるものだが、季節の移り変わりへの感性も変化があるものだろうかと、不思議がっている。

確かに歳を取ると、いろんなものへの受け止め方は変わるもので、私も三十五歳というさほど歳ではない年齢にもかかわらず、ものへの見方や感じ方、好みも変わってしまった。

例えば雨。私は、以前は雨が大嫌いだった。

雨が降ると自転車に乗れないので、車を持っていない私は極端に行動範囲が狭まってしまうのだ。

図書館に行くのもスーパーに行くのも、傘をさして歩いて行かねばならず、おまけに帰りは重たい荷物を片方の手でもってえっちら長い家路を帰って来なければならない。

また雨の日はメランコリックになるのもいけない。

繊細さんといわれるHSPというメンタルに問題を抱えているひとは、ちょっとした変化もストレスに感じるらしく、そういう意味では私もいま流行りのこういう症状に当てはまるのかもしれない。もっとも世間にはなんちゃってHSPもかなりの数いるみたいだから、こういう話題に軽々しく乗っかるのはよくないだろう。

まあそれはともかく、雨の日は必ずといってよいほど、私は体調を崩す。

布団からなかなか起き上がれない日もあるし、起きても、仕事ができないときもしばしば、自暴自棄になって死にたくなるのも、たいていは雨の日だ。

庄野潤三さんが夏から冬へ好みが変わったように、晴れの日から、雨の日へと私も好みが移行したわけではないのだけれど、最近はそれでも、雨の日も悪くないなと思うようになった。

雨の日には、まず音がある。木々の葉を滴が打つ音、地面に落ちる音、地面に溜まった水を車が弾いて行く音。

α波というのは、ひとの情緒を静かにさせるらしいが、雨の日のそんな音にもα波が出ているのかもしれない、しとしとしとという雨の降り落ちる音を聞いて、激昂するなんてひともいないだろう。

雨はそれ自体音楽だ。そして、雨粒のそれぞれが音符を持っていると思うとまた楽しくなる。

しとしと、ちゃぷちゃぷという擬音語も、よくよく考えられたものだと思う。

雨の景色も、最近は、好ましく思えて来た。

地面は濡れると、空の色を反射する。上り坂に差し掛かると、アスファルトの地面が、ずっと向こうまで白く輝いていたりする。

それは、こちらが歩みを進めると、光もまた先へ先へと進むのだ。

タルコフスキーの映画の一場面にそんな光景が出て来てもおかしくない。詩的。

雨の日のよいところをこんなふうに上げて行ったら、それこそきりがないけれど、もうひとつ私が付け加えたいのは、思考に関することだ。

私は、精神の障害をもっているので、この思考というやつはけっこうやっかいなのだ。思考の運動に身を任せていたら、体調が悪化することもある。

先に、雨の日はメランコリックだと書いたが、実はそればかりでもない。

雨の日は、体調は崩れやすいけれど、一方で思考も落ち着きやすい。低気圧のせいかもしれない。

気分は停滞していても、思考が休んでいてくれたら、こちらとしては問題がない、休息しているのと同じだ。

年齢を重ねるとは、それ自体、偉大なことなんだろう、嫌いなものが好きになるなんて努力でできたものではない。

若い時には雨のよさなど、想像もできなかった。

では、また!

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