失敗への考え方、取り組み方。行動がすべてを変えて行く。

エッセイ

失敗への対処法というのは、そのタスクによって千差万別だろうが、根本的な考え方の面では、結局はひとつの方法に集約されるのではないかと思っている。取り組み方もひとつだ。

結論はもう行動につきる。何かを行うと、考え方も変わる。失敗への感受性も変わる。何もしないのがリスク。

失敗への考え方は行動で変わる。

神経質なひとは失敗を無暗に恐れる。失敗してもまったく問題ない事柄でも、それを前にするとびくびくしてしまう。

私もそうで、夕食の献立を考えるのに、かなり迷うときがある。夕食なんて食えたらそれで良く、特に私はひとり暮らしで、ほかに食べさせるひともいないものだから、本来、気楽なものだ。

けれど、悩むときがある。悩むと神経質になる。神経質になると、ほかのタスクにも影響が出てしまい、残り一日のリズムが狂ってしまう。それもこれも私が失敗を恐れているからだ。

失敗って何だろうか。ある課題があって、それが予想通りに運ばなかった、あるいは、まったく反対の結果になってしまった、ということだろう。

つまり、始めに何かしらの期待がなければ、失敗ということもない。

私に夕食はおいしいのが良いという「期待」がなかったとしたら、仮にまずくても「失敗」とは受け取らなかっただろう、けれど、食事というものは、おいしいと期待するものだ。

期待するのは良いし、意識せずとも人間はいろんなところに期待をするものだ。フランクルを思い出す。彼の「夜と霧」という作品には、収容所からの解放を期待するあまり、それが破れたとき生きる希望を失うひとがいたと、書かれている。

人間は、極限の状態にあっても、未来に期待するものなのだ、そして、それが思うようにいかないと、絶望する。自分の予想が失敗したことに耐えられない。

話が大きくなってしまった。しかし、期待と失敗との関係は、「夜と霧」のなかにすべて書かれてある。人間は期待するもので、そこには失敗がつきものなのだ。

考えれば、私はブログをするまでにも相当迷った。それを始めても、私は飽き性があるので、中途半端に終わったら、多くの時間を無駄にすると思ったのだ。それを恐れた。

結果的には、ブログは失敗だった。でも、それは予想していたような失敗でもなく、また予想外な収穫もあった。

ブログの失敗は、私に飽き性によるものではなかった。かれこれもう、八か月くらいは続けていて、すくなくとも三日坊主は卒業できている。

失敗というのは、私がSEOをまったくしなかったために、検索エンジンからのアクセスがほとんどないことだ。はっきりと、飽きて辞めてしまうより、こちらの方が重大問題だ。

けれど、私は地道に指名検索(つまり私のブログサイトを見るために検索して訪れるひと)をえることだけに戦略を変えたので、この問題もさほど大きなものでなくなっている、いってみればこれが予想外の収穫というもので、これも私がブログを八か月間続けなかったら分からなかったこと、まして、失敗を恐れてブログを始めなかったら、こういうことも調べようとは思わない。

やってりゃどっかにぶつかると行動的なひとはよくいうが、実際そうなのだろう。

でも何かをやろうとするひとは少ない。みな失敗を恐れている。ということはたいていの人間は神経質ということだ。

けれど、神経質にならないためのもっとも簡単で効率的な処方箋は、行動だ。逆にいうと、失敗を恐れて足踏みしてばかりいると、この神経症はどんどん深刻化し、複雑化していく。

ある宗教者がいっていたことだが、人間は、進歩するか後退するか、ふたつにひとつの状態しかありえないというのだ。

それなら、進歩を選んだほうがいい。大仰に考えたらまた失敗する。いつもより、五分早く起床する、それも立派な行動だ。

では、また!

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