瞑想によって変わったこと。否定もしなければ肯定もしない。

エッセイ

瞑想によって多くのことが変わった。

私は子供のころから空想が好きで、四六時中何かを思い描いて過ごしていたのだが、瞑想を始めてから、空想に対する執着は減った。

瞑想と言っても大層なことはしない。

いまある自分に集中するだけで、否定もしなければ肯定もしないのだ。

瞑想によって空想への執着が減った。

子供のころから物語を空想するのが好きで、暇さえあれば、アニメや映画の続きを自分なりにアレンジして作ったりしていた。

十代になって色気づいてくると、自分を主人公にして恋愛話を作ったり、ヒロイズム的に自分の活躍を誇張したような学園物語なんかを空想していた。

二十代になってもそれは続いて、映画を観に行くつもりで大阪まで出たのに、自分の空想の方が楽しくて、映画を観ずに、けっきょく映画の上映時間と同じくらいの時を空想で過ごしたりした。

空想はいつもともにあり、私とってもっとも親しい友人だった。

しかし、三十を越えたあたりから、急に気難しくなって、私は空想に多くの時間を費やしていることに、罪深いものを感じるようになった。

空想によって、刺激を楽しむということは麻薬のようなもの、実際の自分、現在ある自分をごまかそうとしているではないか、と思うようになった。

で、そう思いだすと、積極的に空想を楽しもうとすることはできなくなり、そのかわりに、哲学的な屁理屈を延々、頭の中でこねくり回すことが増えた。

でも、空想が私から離れたのは、単にそのころの思い付きで取りやめたというよりは(習慣になっていたので、そんなことはできやしない)、同じころ瞑想も始めて、これによって自然と空想に対する執着が減退してきたからだった。

瞑想といっても大そうなことはしない。

ただ、考えることや空想することを手放して、でも否定もせず、そのときに行うべきことに集中するということだった。

掃除なら掃除に、皿洗いなら皿洗いに、散歩するのであれば、ただ、しのごの理屈を考えずに歩く。

それだけ。

自分を否定もしなければ、空想や考え事に乗っかりもしない。

否定もせず、肯定もしない。

でも、これだけで、私の生活は以前とは大きく変化したし、自分自身へのイメージも、他者というものの捉え方も大きく変わった。

そもそも空想に頼らなくなっているので、自分自身のことについてイメージするなんてことはほとんどなくなってしまったし、他者についても、あるいは社会についても、ほとんど感想らしいものを持たなくなってしまった。

これは良いことなのか、そうでないのか、私には分からない。

大人として、社会で起こっている諸々のことに意見を持つというとこは、常識的なことで、そうしないと恥ずかしいことでもあるだろう。

でも、自分自身への関心が減るとともに、社会への興味関心も減ってしまった。

自分自身が滅びるように、目に見えているこの社会もいつかは消えてなくなるのだ。

いや、自分自身が刻々と変わっていくように、社会も確実に変化していき、とどまることを知らない。

そんなものにこだわりを持つ必要はあるのか。

しかし、これもいってもみれば理屈で考えたことであるし、それ自体、解釈、イメージの世界だ。

社会があると思うなら、そこで役割を見つけて、色々考えたり、働いたりしてもよいし、そんなことを必死になって否定しようとするほうが間違っている。

なにか、「ある」と思うならそれで良く、そのまま置いておいて、そこで役割が与えられているならば、理屈をいわないで集中してそれをやる。

空想でも同じことだ。否定しても仕方ないし、それに乗っかる必要もない。

自分のなかで起きている現象をそれとして手をつけないでおくと、ひとりでにそれも変化していく。

では、また!

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