マジメなひとの人生観。「苦しみも祝祭」

エッセイ

マジメなひとにも当然、生き方への意見というものがある。人生観。

マジメなものは苦しいのです、とはリルケの言葉。

私もひとに呆れられるほどのマジメ人間だが、やはり苦悩は多い。

しかし、マジメとは彼岸に繋がる能力のことだ。

あちらの世界に繋がると、苦しみも祝祭になる。

マジメなひとは苦しみが多い。

マジメなものは苦しいのです、とはリルケの言葉だけれど、ある程度大人になって、自分がマジメだと客観的に見られるようになったひとは、誰でもこの言葉に何か思い当たることはあるのではないだろうか。

もっとも、ここで、リルケがやったような、哲学的なスピリチャルな話はするつもりはなく、ただ、マジメってそれだけでつらいよね、って話をちょっとしてみたい。

マジメを辞書でひくと、誠実という言葉が出て来たり、小さいことにもコツコツ取り組むさま、とかそれふうの描写があったり、マジメほど定義をするのに苦労もない性格の種別もないだろう。

悪くいえば四角四面だ。

かくいう私もよくマジメだねえといわれ呆れられるくらいなのだけれど、あまり良い意味でそう言われたことはない。

お気の毒に、というようなニュアンスがそこにはある。

気の毒に思われても、私にはこれ以外の性格にはなれっこないし、他の例えばちゃらんぽらんな性格がどのようなものか私には分からないので、そのように振舞ったりすることはできない。

おそらく、ちゃらんぽらんなひとがマジメぶるより、マジメなひとがいい加減に装うほうが難度は高いだろう。

おろらく、こういう融通の利かないところに、マジメ人間のつらさがある。

とにかく、手を抜くことが苦手で、目の前のことは真剣にやるが、周囲のことやその先のことまで見通すことができない。近視眼的。

もちろんこれもひとにはよるのだけれど、私が見てきたところ、マジメなひとほど、事務的なのだ。経営者視点がない。

そして、その近視眼的なところが、人生観にも出てしまう。

彼は、マジメに働くことを誇りとしている。それが、人生というものを築きあげる唯一の手段だと思っている。

他のひとが作業を終えて、一休みしているときに、倉庫でひとり後片付けをしたり、明日の用意をしたりしている。

そして、それを褒められたうれしい。

でも、笑われたり、ひとにいいように使われたりすると、人一倍傷つくのだ。

なぜなら、マジメに働くことが、ポリシーとなってそれが人生のモットーとなっているから。

人生を否定されることほど、苦痛なことはない。

でも、マジメなひとにはよくそういうことは起こる。

始めの言葉に帰りたいのだが、マジメなものは苦しいのです、とはどういうことだろうか。

マジメなもの、つまりそれは真剣に取り組むべき事象のことだ。

見方を変えれば、マジメそのものが、苦しいということだ。

リルケの文章を読めばすぐに分かることだけれど、彼も大のマジメ人だ。

自分に対しても、他人に対しても、手を抜いて接しようとはしない。そのため、彼は苦悩が多かった。

マジメなひとにしか、訪れない啓示というのはやはりあって、文学者でもマジメで不器用なひとほど、彼岸に繋がろうとする。

天は、真摯なひとにしか姿を見せないようだ、そして、さらに選ばれたひとは苦しみを要求される。

マジメなものは苦しいのです、でも仕方がない、それが使命なのだから。

でも、それはマジメなひとにしか参加できない祝祭があるということだ。

マジメなひとの人生観は一見するとかなり近視眼的なのだけれど、それも突き詰めれば、天上の世界に繋がれるし、そうなると、苦しみも祝祭的になっていく。

マジメなひとがみなその喜びを味わえるとは限らないけれど、マジメでないと、そこまでは行くことができない。

マジメの意義は、苦しみにある、ということだろう。

では、また!

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