phaさんの「パーティが終わって中年が始まる」の感想。

エッセイ

phaさんも中年になった。

phaさんの新刊が書店に平積みになっていた。「パーティが終わって中年が始まる」というタイトルで、彼ももう四十半ばとなり、昔のようにネットをふくめ、世の中の動きに反応できなくなってきていることを吐露している。

ぼくは、長年の彼のファンで、彼が何か本を出せば必ず買うようにしている。彼の本は、書くことに不安になったときに、よい調整役となってくれる。書くことができないわけではない、ただ、書くことが不安であるというときがある。そんなときは、たいてい力んでいるので、気持ちをリフレッシュさせる必要があるが、phaさん本ほど、その目的をかなえてくれるものもない。

「知の整理術」「しないことリスト」「どこでもいいからどこかに行きたい」これらの本で、努力することの美学や、絶え間ない献身など、真面目くさった言葉はどこにもみられない。あくまで、内容もスタイルも彼のマイペースのままを描いている。

ぼくは、多少の誇張をこめて、彼のことをマインドフルネスを地で行くようなひとだというように思っている。マインドフルネスというのは、あるがまま今の時間に集中している状態と考えるとわかりやすいと思うが、彼は(確かブログ記事だったと思うが)先々のことはまったく不安でないと豪語していた。

もちろん、まったく考えないというわけではないだろう。しかし、過度に計算して、先の不安をものごとやりくりしている多くのひとにとっては、彼の生き方はヒントになると思う。

さて、先日買った彼の本だが、実はまだ、全部は読んではいない。だから、この記事は純粋に書評とはいえないが、始めの所感を書き留めておきたいと思っている。前半部分を読む限り、彼は自分が老いたことをまず率直な実感として描いている。「中年になって他人と過ごすことの許容度が下がったのはなぜだろうか。なんだが中年になると、自分も他人も存在しているだけでうっとうしさが発生しているような気がする。」体力の衰えもあってか、かつてのエッセイにないようなさっぱりとしたあきらめというようなものはなく、どこか悩みがあるようにも感じられる。

ミドルクライシスというが、中年には中年の問題というものがある。40になって不惑といったりするが、一方で体力が目に見えて落ちてくるのも40代、しかし、社会的にはいろいろと責任を負う歳でもあるし、仮に何か重い職責というものがなくても、世間は40歳の人間にはそれ相当の思慮を求めてくる。考えると面倒くさい。いろんなことに板挟みでうつになるひとも多い。まさにミドルクライシスだ。

phaさんもまぎれもない中年で、何かしら悩みもあるだろうが、しかし、それにはphaさんらしい応答をしているようだ。彼の中年期の吐露からは、深刻さが感じられない。歳をとって本の依頼が少なくなってきているといると彼はいう。

しかし、だからといって、彼は慌てふためいているようでもないようだ。流れるままでいいではないか。もちろん、そんな単純に物事を受け入れることは難しい。しかし、彼の文章は、静かな町の小川に流れる一片の葉のようでもある。大げさにいうと諦念のようなものも感じさせる。できないことはいくらがんばってもできないし、やれることはすでにやっている。

「日本一のニート」とかいわれた彼もすべてをだらだらと過ごすことを肯定しているわけではない。お金がないとどうしても生活に勤勉さを求められるものだが、「知の整理術」にあるように、彼の物事を進めるすべを知っている。

彼はこの先どうするのだろうか。頭が無駄に動いてしまうこちら側の人間は下手に詮索してしまうが、彼はまったく別のことを考えているに違いない。

マイペースで来た人が、いままでのやり方を180度変えて、努力の鬼になるのは考え難いし、なかなかしんどいだろう。そこはphaさんである。僕は彼がこの中年のあるいみでは「危機」をすーっと抜けてしまうことを信じている。彼の本のページをめくるのがますます楽しみになる。僕ももう38歳だ。

では、また!

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