人間の三大欲求のひとつといわる性欲と真剣に向き合うということは、それ自体ストイックとなる。
ひとによっては、食欲や睡眠欲に比べて、性欲の抑制にかなり困難さを感じる。
しかし、性欲を観察することも習慣化すれば喜びに変わってくる。
メディテーションの一環として性に向き合うとより多様な自分を発見できる。
ストイックてなんだろう?
ついこないだ、佐々木典士さんのエッセイを読んだ。ミニマリストに関するものと、習慣づけの大切さを説いたのものの二冊。
持つものは最小限、運動をし、自分で料理も作り、酒は飲まない、こう書くとかれはかなりストイックな思想の持ち主のように思われるかもしれないが、彼自身はエッセイのなかで言及しているように、まったく禁欲を主義にしているわけではないというのだ。
むしろ、そのスタイルが非常に好きで、ただ好きなことを好きなように実行しているだけ。しかし、そこにはきちんとした方法論があって、たとえば、ミニマリストになろうとして、一気呵成にものを捨てようとしないとか、ものを持つことをあるいは持たないことにプライドを持ちこまないことなど、具体的なことから精神論まで、彼なりのこだわりがある。
しかも理にかなったことを徹底している。無理しても続かない、楽しくなければやる意味がない、そういう意味では彼はけっしてストイックを主義としているのでもない。
今日は、ストイック、あるいは禁欲主義について少し考えてみたいと思うが、もちろんそれは、このブログのテーマのひとつでもある、メディテーションとも関係のあるものだ。
禁欲主義というとまずたいていのひとは宗教的な厳しい訓練を思い浮かべるだろう。例えば、日本の仏教でも明治になるまでは、どの宗派も肉食を禁じていたし、禅宗にいたっては、僧侶は妻帯をしなかった。あるいは、飲まず食わず、睡眠もしないといったような肉体を極限まで追い込むような修行を重んじる宗派もある。
もし、こうしたトレーニングをストイックでないといったら、他にそれに値するようなものが思い浮かぶだろうか。
しかし、仏教の修行者本人が、それをストイックと捉えているかというとこれは別の話。
辞書的な知識になるが、ストイックとは、古代ギリシャのストア学派から派生した言葉で、自然との調和、破滅的な欲望の抑制など、特に後者の考え方に代表されるものにこの言葉は使われるようになった。
破滅的な欲望というと、無制限に性欲の赴くままに行動したり、怒りを場当たり的にぶちまけたりといったようなことがまず思いうかぶ。
私はキリスト教神学を学んでいるので、欲望というと、そこに罪の萌芽のようなものを見てしまう。
例えば、新約聖書に登場するパウロは、特に性的な欲望について、肉欲と言う言葉を用いて、ネガティブな発言をしている。性の欲望はコントロールされるべきである。パウロは、その欲望は殺してしまいなさい、と言うような激しい言葉で持って、性的に放恣な教会員に自己を律するように説いている。
しかし、余談だが、キリスト教は、性そのものに関しては罪だと説いているわけではなく、むしろ、神に与えられた良い機能だと説いている。ただ、正しく用いる場合によって、それは祝福されたものとなり、本当の喜びとなる。
この、正しく用いる場合というのが、しかし、現代ではなかなかハードルが高い。現代では慣習的に、互いに好意をもっているカップルであるなら(そうでないことも珍しくないが)結婚前にセックスをしても良いということになっている。むしろ、お互いの相性を知るために、結婚前にセックスは必ず試して置くべきだ、というのが主流のようである。
こういう考え方が一般的になっているなかで、結婚までセックスをしないとなると、ストイック云々の議論を超えて、奇人変人と同じように語られてしまうだろう。
しかし、キリスト教では結婚前に性交渉をしないというだけではなく、例えば、ポルノを観ることも、マスターベーションをすることも、罪となり、控えるべきだと説いている。
自分の性に特に制限をもたないひと(自分の好きな時にマスターベーションをするなど)からすると、まずそんなことは可能なのかと驚くことだろう。
仏教においても、キリスト教においても、性をコントロールすることは大きな課題となる。場合によっては、もっとも克服が困難な訓練のひとつとなる。
一方で、先にいったように、仏教であれ、キリスト教であれ、性が罪深きけがれたものとは考えてはいない。否定することもまた煩悩だ。
性欲と向き合うことはストイックか?
メディテーションは、呼吸の数えるのがその目的ではもちろんない。自分の状態に気づくことがまず始めの入り口であり、熟達してもこの重要性はまったく変わらない。
もっとも、強い目的意識はメディテーションをゆがめてしまい矛盾を生むが、それもまず自分の状態に気づいていないとまずそんな発想も浮かばない。
自分の状態に気づくというのは、何もポジティブなことだけに限らない。注意力が散漫であったり、あるいは自分の性欲の強さに気づくのもメディテーションの役目である。
メディテーションをしている最中にも強い性的欲求に襲われる時がある。神学者のアウグスティヌスは礼拝の最中に性的な欲望を感じたと告白しているし、神秘家の十字架のヨハネという修道士は、瞑想が進めば、性的な強い欲望にかえって襲われるということもと説いている。
メディテーションの始めの段階において、重要になってくるのは、習慣的にそれを行うということだ。佐々木典士はよい習慣が生活を変えたと説いている。また、よい習慣、コンスタントな練習が大きな仕事をもたらすといっている。
メディテーションも習慣のなかで積み上げていくもので、それは勉強やスポーツとまった変わらない。特に、メディテーションには毎日の積み重ねの中でしか見いだせないことがたくさんある。
例えば、性欲がどのように自分のなかで動いているのか、と注意深く観るのも、日々の観察がなければそもそも比較ができない。
性欲には様々な段階がある。年齢を重ねれば、発作的に強い衝動が起こることは稀になるが、それでも、性欲に強弱、濃淡のグラデーションははっきりとある。
しかし、性欲にグラデーションがあるといっても、日常的に欲望が襲えば、ポルノを観て自分を満たしている状態では、この微妙な動きや変化にはなかなか気が付けない。
ポルノで、マスターベーションをするということは、つまり、そのひとにとって性とはそれだけのものだ。僕は、性欲を抑制するのと、メディテーションはセットだと思っている。
人間の三大欲求と言われる食欲、睡眠欲、性欲と向き合うことは、どの宗教的な瞑想でも欠かせないものだ。
食べたくても食べない、眠たくても寝ない、性欲が襲ってもマスターベーションをしない。こういうことにどういう意味があるのか。
断食を長期間した人の話によると、それによって、生活への不安が大きく軽減されたという。つまり、食わねば死ぬ、というような恐怖感(常に我々はこれと向き合っている。失業の恐怖もこれと結びついている)から自由になれるのだ。
同じように性欲についても、多くの研究者が異口同音に述べるように、ポルノからの自由は、人間関係の不安から私たちを解放してくれる。
ポルノを観るということは、直接に脳に影響があることだ。また、性を自分の欲望を満たすことにのみ使うのであれば、当然、他者の見方へもそれは影響する。
こう考えると、性欲を抑えるということは、それ自体がメディテーションで、自分を観察することにより、より深く自分自身のダイバーシティに気づくことができる。
でも、これはあくまで、禁欲主義ではない。性欲や食欲などを制限した経験がない人にはこれはかなりストイックなように思われることだろうが、欲望の抑制が習慣になっているひとにとっては、そう難しいことではない。むしろ、喜びでもあるし、自信も芽生えて、ものの見方もかわり、非常に快適なのだ。
ここに習慣化の大きな力がある。神学者のトマス・アクィナスは、徳を積むことは喜びであるといっている。メディテーションは単なる、健康科学的に、体をヘルシーにするたえめにあるのではなく、自分のかつて気づかなかった自分、かつての自分が思いもよらないよううな自分にであるためのものでもある。
では、また!
コメント