キリスト教神学の重要な柱に、自由意志というものがある。
人間は主体的に、善と悪を選ぶことができ、信仰を選び取れると考えられているものだ。
しかし、神学において、「自由」な意志とはもっと複雑で、矛盾をもはらむもの。
科学的な考察の仕方では説明できないことが基礎となっている。
人間理性は神からのギフト。
キリスト教には自然神学という学問があり、人間も含め神が作ったこの世界のあらましを観察することで、神の実態を知ることができると考えるものだ。
聖書をひもとくと、神は世界を作った後、満足したというような記述がある。世界は良きものとして存在し、それは、アダムとイブの堕落以降も、本質としてそれは変わることはない。
人間はまた、神の似姿として作られて、そこには理性、直観、良心なども、神と出会うために、神をしることができるギフトとして考えられている。
トマス・アクィナスが類推でもって、神はなんであるか、またなんでないか、と肯定と否定を繰り返して神を探求したのも、理性でもって神を知ることができると考えたからだ。
自然はなんであるか、自然のもろもろ現象は、その本質において、神とどう違うのか。そうした考察から、彼は、神とは諸々の存在の根源であり、人間を含めた被造物(キリスト教では、神がつくったとするこの世界をそう表現する)は、神にその存在のすべてを負っているいるということだ。
アメリカの神学者のロバート・バーロンは、トマスの解説で、被造物は神によって作られ続けていると表現している。つまり、人間を含め、あらゆる文物は存在する限り、神によってここにあることを肯定され、創造され続けているということだ。
つまり、あらゆるものには、神の働きがあり、人間は理性でもって、それを観察する限り、神のなんであるかを知ることができる(しかし、トマスは、理性でもって神のすべてを知ることができると考えたわけではなく、あくまで、神が許す限りにおいて、その存在を知ることができるとした)。
自由意志という考えの矛盾。
しかし、ここで、問題がある。神がすべての存在を支えクリエイションし続けるのなら、悪の存在も神は作り続けているのか。ナチスのような残虐行為も神が行ったことであるのか。
ここで、トマスは、神は完全に善であるので、悪は行えないと考えた。完全に正しい人は、偽証は行えないように、完全に善であり、愛であるという存在である神が、悪を作り出すということは、不可能だ。
では、なぜ、悪は存在しうるのか。
トマスは、アウグスティヌスの思想を受け継いで、悪は善の欠如だと考えた。つまり、不完全ゆえに、何らかの選択の連続で善意が破壊された状態ということだ。
おそらく、トマスにとっても、アウグスティヌスにとっても、これが人間に認められる自由意志の根拠となるものだ。
つまり、人間には自由にものを考える能力が与えられている、それゆえ、悪を選択するのも人間に責任があり、神がそこに導いたわけでも、その状態を作ったわけでもないというのだ。
すると、ここで現代特有の問題が浮かびあがってくる。一部の神経科学者は、自由意志などないと主張する。すべては、遺伝や、その時の状況(おかれた場所の気圧であったり、季節であったり、そのひとの健康状態であったりなど)など数えきれないようなファクターがそのひとの神経伝達を構成しているのであり、そこに主体的になにかを選んでいるという余地はなく、それは幻想だというのだ。
つまり、これをキリスト教にむりやりはめこむとなると、神はすべてをコントロールし、人間のあらゆる悪意も、歴史的な悲劇もすべて、神が作り出していることになり、人間にはなんの責任もないということになる。
つまり、ヒトラーの思想や残虐非道な犯罪も彼ら自身には責任はなく、すべて、環境がなしたことであり、別の言い方をすれば、神がこれらを行ったことになる。
当然だが、この考えを受け入れる神学者はいない。
自由意志の存在の有無に関して科学からの挑戦をうけているのはたしかだが、一方で、キリスト教の自由意志は科学によって解明できるものであるのか、という疑問も残る。
キリスト教における自由意志は、神との関係性を物語るのものだ。では、自由意志によって善を選び悪を避ける行為、あるいはその逆もあるわけだが、これはどのように説明されるべきだろうか。
神が悪を犯し得ないとしたら、人間や他の被造物(例えば、元は天使であったルシファー)が悪を作りだし、悪魔的な行為を行なっているということになる。
科学が自由意志は完全に存在しないと断定はしていないにしても、かなりの程度その役割を制限するような評価はすでに下している。もし、環境要因が大きなファクターであるとしたら、何かの悪い行いに対しても、情状酌量の余地は当然生まれるし、解釈次第では無罪となる。
こう言い換えられないだろうか、自由意志は確かにある。しかし、それは制限の下にある。つまり、人間には完全に自由に善は行えないが、完全に純粋にかつ自由に悪も行えないということだ。
ここに人間の知恵の欠如、アウグスティヌスの言葉を少し言い換えると、完全なる善である状態を欠いた、罪の状態と言うことか。そもそも、アウグスティヌスも人間の理性によって、自分の責任において、善を行い、それによって救われると説いたわけでなく、むしろ、反対に不完全であるが故に自分の力では救われないと主張した。
彼の自由意志の考えは、自分でなんでも決断できるというものではない。信仰に入るのも、自分の選択と決断では不可能なのだ。ここに彼の自由意志論の複雑さがあり、深みでもある。
被造物は完全なる善は成し得ない。ここにすでに善の欠如がある。悪がある。悪魔が入り込む余地はある。もっと簡潔にまとめると、不完全はすでに悪であるということだ。
神の世界創造の理由は人間の理解を超える。
では、なぜ、神はその悪を野放しにしているのか。この問いはまた別の話題を呼ぶので、ここでは詳しく述べないが、神は歴史をとうして働くからであり、人間(あるいは宇宙も含め被造物全体)の活動を不完全でありながらも、そのあり方を肯定しているからと言える。
英語でmandateという言葉があるが、委任と訳せるもので、神学に対する言及でよくみられる。人間に役割が与えられているという考えである。それは神による、歴史の肯定でもあるわけだが、一方で神の時間は人間のそれとは違う。
時間という概念には属さない存在であるのが神としたら、歴史はあくまで人間の認識によるものだ。その中でしか役割がないのが、人間の不完全さでもあるが、一方で神はそれを肯定しているとも解釈できる。
聖書では全ての被造物は完全性へ向けての旅をしていると物語る。つまり、人間の不完全性、そこから生まれるさまざまな悪、はやがては終わりを迎える。
神がなぜ、このような不完全な状態を作り続けているのか、という問いに、人間は不完全な解答しか提出できない。つまり、全ては、完全に至るための旅であり、我々の目には全て不完全であるが、神には何一つ欠けることがない完全な道程であるということ。
つまりそういう不完全な解釈だ。
では、また!
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