自分のアイデンティティなんて探さなくていい。

photo of a boy near leaves エッセイ
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「自分らしさ」や「本当の自分」といったものをアイデンティティと呼んだりするが、果たして自分がそう思う、あるいはそう思いたい自分というのは実際に存在するのか。

記憶というのはあいまいなものだ。過去を振り返っても友人と認識がまったく食い違っていたということもよくある。

不完全な記憶に基づいた「アイデンティティ」というのもやはり不完全でもろいもの。

現在の自分は過去の集積?

生きている人間にはみなくせというものがる。

困ったときに、鼻をさわるひともいれば、喜ばしいときになぜが顔がひきつってしまうひともいる。

人間の内面には意識のうえではとらえられないほど、様々な要素が関係しあって働いているが、それらはもちいろん、昨日今日に即席で出来上がっているわけではい。

何年、何十年、あるいは、子供のころにうけたトラウマなども関係して、今の自分というものが成り立っている。

困ったとき、鼻を触るのは、蓄積された無意識の様々な要因が衝動を通して見える形で表出しているのだ。

よくマインドフルネスでは、「いまここ」に集中せよと説く。ということは、過去のすべてを否定せよというのだろうか。

たとえば、今私が、あることを思い出して、非常に苦痛でうめき声を上げたとする。しかし、マインドフルネスのトレーナーなら、必ず、それは「いまここ」にはないと教えるだろう。

しかし、「いまここ」にいる私は過去の蓄積から成り立っている。もし、マインドフルネスのいう「いまここ」が過去から離れることにあるなら、そもそも理屈として、「いまここ」にいる自分もいなくなることになる。

記憶の蓄積をアイデンティティととるなら、もし過去がなければ、マインドフルネスをしようと思う「私」も、呼吸に集中してようとしている「私」も存在しない。

主観的にも客観的に過去の一連の経験や出来事がいまの私を導いていて、過去がないとすれば、「私」を実態として認識することもない。

あんまり理屈っぽいことをいっても読者は退屈するだけなので、はやく結論だけをいってしまおうと思う。

つまり、マインドフルネスは過去を否定することではない。むしろ、過去を正しく「観る」ことであるともいえるだろう。

しかし、(婉曲になって申し訳ないが)それは、過去を掘り下げることでもない。あくまで、いまいる自分として、頭にうかぶことを否定しないのだ。

過去の自分は本当に「自分」か?

私は、長年ある病気を患っているが(グーグルの規約上あまり病気のことは詳しく語れないが)、ときどき、フラッシュバックとして、過去の病気により引き起こした様々な失敗が思い出されることがある。

病気なんだからしかたがない。そんな出来事は失敗というより事故のようなもので気にする必要もない。たしかにそう思うし、そのように思おうと努めているが、なかなかこれが困難な作業なのだ。

私がもっとも難しく思っていることは、過去の出来事(それが病気により引き起こされたとしても)が密接にいまの自分とかかわっているという思い込みから離れられないことだ。もっというと、その失敗が自分のアイデンティティーの一部のようにさえ感じられる。

たとえで少し話そうと思う。学生時代に大変人気者だったというひとがいるとする。女性にモテた。しかし、ひとは不思議なもので、学生時代に非常にモテたからといってそのあと社会人になっても継続してモテるとは限らない。まったく見向きもされないといういこともありえる。

この場合、モテた「自分」というのはどこに行ったのだろうか。学生時代は非常に自信もあったがそれもなくなった。じゃ、そのアイデンティティとなっていた自分はもうこの世には存在しないのか。

この疑問におそらく瞑想をすこしかじったひとなら、回答はすぐに見えてくるとおもうが、そもそもそんなモテる「自分」なんてものは、今現在の自分が想像するように存在したのか、ということだ。

この想像というものがクセものだ。

私は過去の失敗を何度も思い出して、ときに苦痛にあえいでいるが、いったいその記憶が正しいという保証はどこにあるのか。

どこにもないはずである。

過去と思っているのは、実は現在のいまの投影であるとはいわれる。

過去にモテた自分はいたことだろう、でも誰も正確な情報としてそれを保持しているものはいない。むしろ、今現在の解釈がそれを大きく脚色している。

アイデンティティは探さなくていい。

私はだからといって、過去のすべて、記憶しているすべてがフェイクだといっているのではもちろんない。

始めにも言ったように、私たちの現在は過去の集積で成り立っているのはおそらく科学的みて妥当だろう。

しかし、その過去は私たちの主観的な力では把握できないし、そして、タイムマシーンでもない限り、それを客観的に図る方法もない。

ということは、「過去の自分」をほじくりかえして、これがどうやら自分のアイデンティティーだと思い込むことはナンセンスだということだ。

そんなものは自分に都合の良い妄想でしかすぎない。この記事の結論として僕は、アイデンティティというものは、探さなくていい、もっというと探すべきではないと主張したい。

なにかしら仕事で得意なものは見つかるとは思う。でもそれがよくいわれるところの固定化された自分「アイデンティティ」とはたしていってよいのだろうか。

私は「自分らしさ」もっとも腑に落ちる感じでのアイデンティティというのは、もっととらえどころのないものだと思う。

それは、確かに過去の経験の集積から成り立っているが、とわいえ、過去はコントールできないし、それを構成している記憶もそうである。

ということは、「自分」というものに対してなるべく恣意的にならないということだ。あくまで「なるべく」であるが。

もっと自分に起こっていること、起こってきたと思っていること、これから起こるであろうことについて、寛容になると、生き方はずいぶん楽になると思う。

生きることはコントロールすることではないし、他人に強制されることでもなく、強制すべきことでもない。

しかし、能動的に判断できることは確かにある。この微妙さ加減を感覚として身に着けていくのには時間がかかる。メディテーションが必要。けれど、決して年齢だけによるものでもない。

では、また!

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