マスターベーションをやめれば人生が変わる。

エッセイ

マスターベーションをやめれば人生観は変わる。

ポルノが脳に与える悪影響は甚大なものだが、これに習慣的にせっしているひとはその怖さに気づかない。

ポルノでマスターベーションをすることは自分のエゴを高めること。

強いエゴは必ず日常生活に悪影響する。

ポルノは脳に悪影響。

自制心がないと、毎日のルーティンがこなせないばかりでなく、人間関係にも影響してくる。

例えば、性欲。性欲は人間の三大欲求のひとつで、食欲、睡眠欲と同等の動物に根源的な欲望だ。

しかもほかの動物と違い、人間は一年を通じて恒常的に性欲が維持されている状態で、いいかえるなら、これを抑えようものなら、年中その欲望と向き合うことになる。これは大変なことだ。

しかし、自制心とはまさにそのためにあるようなもので、つまり、人間の根源欲求のひとつである性欲をどうコントロールするかで、人間関係も変わってくるし、そうなると、その後の人生の設計も大きく展望が変化してくる。

巷では、マスターベーションは健康によいとされる言説も見られるが、こと、生活を理性的に運営できるか云々のもっと根本的な視点から観た場合、これは害悪になることが多い。

マスターベーションは、セルフセックスとも言い換えられるが、つまり、相手がいない状態で自分のファンタジーで(ポルノも含む)セックスをしていることになる。日本語でも「ひとりエッチ」という言葉がある。

とくにポルノを使ってその行為に及ぶ場合、脳に与える影響は甚大だ。ある学者は、ポルノ鑑賞から逃れられない状態を、脳のハイジャックと表現する。はじめ、ハイジャッカーはとても親切で控えめだ。「ねえ、いっしょにドライブしようよ、わたしが運転してあげるから」。で、気が付けば車を乗っ取られている。

そうなると、ここから、もとに脳を訓練しなおすのはかなりの労力と根気とがかかる。場合によっては医学的な治療も必要となり、費用の面でも負担は大きくなる。

ポルノを観ないためにはマスターベーションをしないのに限る。マスターベーションをしなければ、仮に性欲が襲ってきたとしても、ポルノへの関心はほとんど湧かないか、まったくその存在のことすら忘れていることもある。

性をコントロールするということは、自分と違う性質をもった人間に対して敬意をはらうことでもある。ポルノや自分のファンタージーで自分が好きなような行為で自分だけを満たすことに、相手への配慮はまったくない。

英語では恋愛関係の親密性のことをインティマシーといって、互いへの関係性を非常に強調するところがある。もちろん、これにはセックスも含まれる。

しかし、良い人間関係を気づくには、相手への配慮が常日頃から必要となるし、そのためにはやはり、ポルノで自分勝手に「いたす」ことはやっぱり控えるのがいいし、ポルノやマスターベーションを控えるにはそれ相当の自制心が必要で、ひとによってはこれにかなりの葛藤が要求される。

マスターベーションを辞めるには、心構えが大事。

ポルノを観ないためにはマスターベーションをしないほうがいいといったが、文字どおりこれはまったくしないのであり、回数を制限するというような控えめなことでない。少しでもマスターベーションを習慣のうちに残しておくと、それは必ずポルノに繋がる。

インターネットの発達で、かつてないほど容易にエロコンテンツが手にはいるわけだから、マスターベーションをするということはイコールそこへの導線を自分のなかに作ってしまうということだ。だから、やめるならきっぱりやめるのがいい。

しかし、そうはいっても、やめられないからみんなこまっている。だが、やめたいと思うならそれはかなり意識のうえで進展があるといえよう。そもそもポルノに関してまったく危険意識をもたないひとがほとんどであるので、そういうひとは自分が依存状態にあることにすら関心がない。

エネルギーもほかさまざまな機会を見失っていることに無自覚でいることは恐ろしいことだ。

マスターベーションをやめるにもいろいろと段階がある。まず、第一に、失敗はするものだと、あらかじめ知っておくこと。人間みんな弱いので、欲望が襲ってきたときに、常にそれに正しく対処できるとは限らない。むしろ、初期段階では、失敗の連続だ。

そこで、次の段階だが、失敗は益になると知ること。マスターベーションを断つことは長期の訓練を必要とするので、ときには、三か月も我慢したのに、失敗することもある。その場合のやるせなさや、無力感(いっさいの努力が無駄になったという思い込み)はたいへんなものだ。

しかし、努力した経験や実績は必ず残るので、次のチャレンジは必ずもっと容易になるし、この過程を繰り返すことで、自尊心にも非常に有効に影響してくる。

そして、もっと根源的で自覚的に対処しなくてはいけないことは、生活そのものを見直すことだ。性に対する依存はほかのアディクションと同じで、ストレスからくる。もし、人間関係に悩んでいるなら、いっそのこと、その付き合いをやめるか、仕事の関係上それができないなら、社交辞令として、表と裏を使い分ける技術を学んでいく必要もある。

ほんとの意味でのストレスフリーとは、困難から逃げるのではなく、困難があっても平然としていることだ。この技術を身につけられたなら、確実にマスターベーションは卒業できるし、もっというと、マスターベーションを断つ訓練のうちでこれを学ぶんでいくことができる。

そこで、最後になるが、マスターベーションの卒業は訓練、修行、メディテーションととらえることだ。トマス・アクィナスという中世の哲学者は、よい行いは始めはかなりつらく耐え難いが、訓練が進むにつれ、喜びに変わるといっている。

欲望が襲って来て、失敗したとする、当然、つらくなる。しかし、訓練が喜びとなっていたら、次の挑戦がけして比喩でなく楽しみになるのだ。

訓練自体が喜びであれば、この戦いにはもう勝ったも同然である。

僕はこの過程をメディテーションと見ている。自分が変えられないメディテーションはそもそもメディテーションとは呼べないが、この過程は、確実にしかも自覚的に自分の変革を味わえる。

性そのものは良いもの。

これまで、マステーベーションおよびポルノの危険性やリスクを語ってきたけれど、性欲そのものはけして悪いものではなく、コントロールさえできれば、生きていくための糧ともなる。

ひとは食べ物だけで生きているのではないとは、聖書の言葉だが、これはもちろん人間の霊性や精神性を強調している部分である。性欲とは精神性と深く結びつくもので、単にマスターベーションを楽しんでいるだけでは、この喜びは経験できない。

ひとを愛するということは相手を尊重することだが、自制心のないところで、それははたして可能だろうか。

自分でその行為に及ばないということは、もっと実際的なめんでホルモンバランスにも影響するし、体質が変われば、考え方もかわるし、考え方が変われば人間関係が変わり、人間関係が変化すれば、幸福度も違ってくる。

ようは、自制心を鍛えるかどうかで、そのひとの生き方がずいぶん変わる。大げさに聞こえるかもしれないが、マスターベーションを辞めるかどうかで人生が左右されるといっても過言でない。

これは非常な訓練であり、修行であり、メディテーションだ。

作家の開高武は、「こらえ性のない人間には小説は完成できない」といっていたが、小説を人生に置き換えることもできるだおろう。

こらえ性のない人間には性の楽しみは味わえない。

では、また!

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