庄野潤三に学ぶメディテーション。

book opened on white surface selective focus photography エッセイ
Photo by Caio on Pexels.com

マインドフルネスのメディテーションをしていると、ついついいろいろな目的意識、意図をもってそのエクササイズに挑んでしまう。

庄野潤三は、瞑想家ではないし、宗教的なことはいっさい言及しなかったひとだが、彼の小説の日常描写には禅の軽妙さを僕はそこに重ねてしまう。

目的を持たなくてもよいということ。

メディテーションをどのような心持ちで続けたら良いだろうか。

悟りへの情熱を抱いて、毎日決まった時間、苦行として坐禅を組むべきか、それとも、そんなこだわりも捨てて、好きな時間、気が向いた時だけ、呼吸の練習をすれば良いのだろうか。

しかし、どっちが良いかと考えを巡らしている時点でもやは、メディテーションの基本からは離れてしまっている。

メディテーションを教える本はたくさんあるが、学問的なテキストだけが、それに役立つというわけでもない。

ここでちょと日本の小説家の話をしてみたい。最近はあまり読んでいないが、私は一時期、庄野潤三の小説しか読まなかった。庄野潤三は、自分の日常の風景だけを描いた作家で、ほとんど作家としての野心や虚栄心を表に(つまり文章として)見せたことのない人だった。

彼の中期の作品に「夕べの雲」という長編がある。新聞に連載していたもので、続き物の短編集としても読める。その中で、一家が台風に襲われるところを主人公が空想する場面がある。風に家ごと家族が中空に飛ばされ「やられた‼︎」と一家の長である主人公が叫ぶのだ。

ユーモア、コミカル、彼は大阪の出身であるが、関西の笑いにありがちなベタついたところがほとんどなく軽妙である。

私は、彼のこの軽妙さから長年多くを学び自分の小説でも真似てみたこともあったし、全く意外なことに自分の宗旨であるキリスト教の理解にも役立っている。

さて、メディテーションであるが、おそらく、瞑想をするにあたって、何か気分を落ち込ませるようなことをわざわざ思い出そうとする人はいないだろう。あるいは、激しいロックミュージックで神経を興奮させようとする人もいないと思う。そうなるともう瞑想とは呼べず、別のエクササイズになってしまう。

多くの人は瞑想に、精神衛生学的な安定を期待しているはずだが、なかなかそうは思うっても、実現は難しいものだ。気を緩めば、何か余計なことが思い浮かんでしまうし、かといって力を入れると、かえって不要な考えが去来する。

僕は、読書も一種の瞑想だと考えているが、僕が庄野潤三の小説から学んだことは、僕が今あげたような分別をそもそも意識しなくて良いと言うことだった。

さっきの表現でいくと、軽妙でいいと言うことだ。軽妙さ、といってもたんにリラックスしていることとはもちろん同義ではない。

軽さとはもちろんリラックスした身体性のなかにもあるものだが、庄野潤三が小説のなかで表現したものは、もっとポエティックで精神的なものだ。

ポエム、つまり詩はどうして学べるなだろうか?そもそも詩は勉強できるものだろか?庄野潤三は、詩人の伊藤静雄を師とし、深く愛したが、彼が伊藤の詩を「勉強」したのかというと、どうも違うようだ。

あくまで庄野さんは、詩を味わい生きていたのであって、自分の作家の野心のために役立てたのではなかった。ここに、庄野潤三の軽妙さの秘訣があるように思う。

彼はエッセイにも書いているが、本来文学は、文学を本当に好きな人がやるべきだといっている。個人的な野心はむしろ作品をダメにする。この目的のなさ、そしてエゴに自覚的であるところが彼の小説をシンプルに、高度な技巧(庄野さんは自分を技巧的ではないと思うだろうが)へと昇華させている。

彼の小説、エッセイからは禅のひらめきを思わされるようなシンプルさがある。これが僕らメディテーションのグールーにもたいへん役している。

もっとも「目的」を持って彼の作品を読むのは良くない。ただ味わう。それでもって結果として僕らが豊かになればそれでええやんか。

では、また!

コメント

タイトルとURLをコピーしました