トマス・アクィナスの理性の探求。

background of brain inscription on rugged wall エッセイ
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トマス・アクィナスは理性を探求した哲学者、神学者だといわれている。

トマスは理性によって、世界のすべて、神のなんであるかを理解できると考えた、とはよくいわれることだが、それは間違いだ。

彼の「神学大全」のごく始めのほうで、彼の理性の限界を述べている。

彼の理性の考え方は非常に複合的だ。

神は人間の理性によって理解することができるか?

山本芳久氏によると、トマス・アクィナスの哲学には理性をどう把握するかで、非常な緊張が生じていたという。

トマス・アクィナスとは中世最大の哲学者、神学者であるが、彼は人間理性を非常に重んじた哲学者だといわれている。

彼の時代、興隆を極めたスコラ哲学は人間理性を非常に重視した。そのころイスラム経由でイタリアやフランス(当時の学問の中心地はフランスだった)に入ってきた、アリストテレスやプラトンの哲学の影響で、理性そのものを探求する神学や哲学が生まれた。フランスでは人文主義が起こる時期で、これももちろん、そのころのギリシャ古典の流行とは切り離せない。

しかし、トマスは人間の理性ですべてを把握できると考えたわけではなかった。トマスは神学者であるので、理性とは神の恵みのひとつと考えた。これは、イエス・キリストの受肉からヒントをえている。キリストの受肉とは、神であるキリストが、人間の肉体をとってこの世に生まれた、という歴史的事実(キリスト教ではそれを史実と考え、トマスももちろん、そうである)のことで、トマスは、神も人間の理性を有した、と考えた。トマスにとって、理性は最大限に用いるべきもので、なぜなら、神であるイエスもそうしたから。

しかし、トマスは同時に理性によって人間がすべての事柄、とくに神の存在を把握できうると考えたわけではけっしてなく、あくまで、神の存在、働きを推論によって確かめていくための道具だった。

推論とはなんでもそうだが、あくあまで、仮定しか導き出せない。友達の家がどこにあるかはっきりとわからないとき、とりあえず地図をみながら、頭のなかで道を描く。しかし、友達の家がどんなものか、そこまで、どのような風景があるかなどは、実際に行ってみないとわからない。

直観、神との合一。

トマスは、人間の性質や自然などを観察することによって、神なるものに対する知識を深めて行けると考えたが、神を把握できるとは考えない。むしろ、それは非常な傲慢であると、彼は「神学大全」のごくはじめのほうで述べている。

また、神を理解するということについて彼は別の方法をも探求した。それは直観によるもので、これは推論によって、言葉であれかこれかと識別することではなく、論理的な手順を踏まずに神の何かしらを悟るというものだ。しかし、この場合においてもトマスは、神のすべてを悟るわけではない、とはっきり述べている。

カトリックでは神との合一という発想があって、信仰を深めたものは、神とのまったくの一体感を得るというのだ。神の存在にまったく包摂されてしまうという感覚。しかし、これも人間が神になれるというのではけっしてなく、あくまで、神が存在の根源として、自分の理性も感覚もすべて、神の意志と一致するということだが、もちろん、神の意志をそれですべて把握できるということでもない。

正教会の神学は否定神学をもとにしている。否定神学とは「神は何でないか」を探求することで、例えば、キリスト教の三位一体は、理屈の上では二律背反を引き起こすが、それは否定神学では二律背反でなくてはならない。なぜなら、神は人間の言葉で語りえないから、三位一体は当然、矛盾した表現しかできない、ということになる。

トマス神学も基本となるのは否定神学だ。神は語りえない。しかし、彼が否定神学者ではないのは、あくまで、キリストにおいて人間理性を尊重したからだ。

では、また!

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