マインドフルネスとは、集中すること。「瞑想」集中している時間にしかない。

エッセイ

悪い瞑想、良い瞑想という区分けはマインドフルネスには存在しない。

集中しているときだけが瞑想であり、そうでないときは瞑想とは呼べない。

人間は物事を言葉によって分類し、区分けして来た。

しかし、何か作業に集中しているとき、言葉による限界を超えることができる。

集中しているときにしか瞑想はない。

マインドフルネスの指導者のアンディ・プディコム氏は著書のなかで、「良い瞑想も、悪い瞑想もない」と述べている。

しばしば僕たちはよく集中できたときを良いものと捉え、そうでないとき、雑念に気が散っていたときは悪い状態と考える。

しかし、氏は、「集中できていないときは瞑想ではない」といっている。集中できていないときそれは悪い瞑想ではなく、そもそも瞑想と呼べるものではないのだ。

彼は、ある西洋人の男性が、寺に瞑想の修行にきたときの様子を述べている。1960年代アメリカではヒッピーブームがあり、みなこぞってスピリチュアルな真似事をしようとした。アジア各地の寺にも多数の西洋からの瞑想の巡礼者があり、そこには西洋人のあいだで定番となっているコースもあったようだ。その男性もヒッピーブームにのったひとりで、アジアをめぐりスピリチュアルな冒険をしていた。

ある日、寺で作務をしているとき、他の西洋からきた瞑想の修行者と情報の交換をする機会を得た。「この寺では八時間の瞑想のプログラムがあるが、別の寺に行くと、十八時間ずっと瞑想ができる」。情報を得た男性はさっそく、行動にでる。寺の責任者に相談し、「この寺では八時間しか瞑想ができない。別の寺へ行ってもっと瞑想の時間を増やしたいのだが」すると、寺の責任者であり瞑想の指導者である僧は、とくに関心も示さず、よかろうとあっけなく許可した。

拍子抜けした男性は、なぜもっと詳しく理由を聞かないのだろうか、ちょっとむきになった。僧は説明を加えた「あなたは、瞑想の時間しか集中ができないのですか。清掃をしているとき、料理をつくっているとき、アイロンをかけているとき、あなたは集中していないのですか」。

この言葉によって、この男性は目を開かれたという。瞑想が集中のなかにあるとすれば、座っているときだけが瞑想ではない。アイロンがけも、歯を磨く時も瞑想となる。もちろん、努めて座って瞑想をする時間を設けるべきだが、あまり、区分けを持ち込み過ぎると、瞑想が窮屈になって仕方がない。

集中している時間は分別を超える。

最近、鈴木大拙が書いたエッセイを読み始めた。ちょうどいま読んでいるところに、道元の「心身脱落」という言葉がでてきた。

鈴木氏によると、この感覚は言葉で説明する物ではないといっている。言葉とは、(とくにアカデミックな領域で使う言語は)物事を弁別し、整理するために発達してきた。もっともそれは実際にものごとを整理しているのではなくて、整理したと「思い込んでいる」という側面もある。

しかし、心身脱落とは区分けを超えることである、あるいはその概念から抜けることだ。言葉でこれを説明すると分かったようなことにはなっても、体験としてそれを知ることはできない。

先の集中力の話に戻りたいが、僕らが何かに集中しているとき、そこに区分けはない。お裁縫に没頭しているとき、もっぱら意識は手元にある、何かを分析しているのでもない。

もちろん、道元のいう心身脱落と僕らの日々の仕事での集中力とでは次元が違う話ではあるだろう。

しかし、一日のうちで、集中できる時間が多いとき、それ以上に健康的な時間もないのも確かだ。

マインドフルネスが、プディコム氏がいうように「からっぽ」の状態であるなら、それはまさに何かに集中している時間である。分別がない。つまり、落ち着いた状態をわざわざ説明する必要はないのだ。

では、また!

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