毎日を小旅行と考えるうれしいことが起こる。

エッセイ

毎日同じような日が続き退屈したり、鬱屈してきたりする。そんなとき、ひとは旅に出たいと思う。

旅はいいものだ。

でも旅だからといって、贅沢をする必要はない。日常の延長でいいし、そう考えられたら、日常も旅の延長のように思えてくる。

変化は常に足元にある。

旅行だからとって贅沢をしない、無理をしない。

phaさんが著書のなかで、新幹線の窓側の席に座って、ぼうっと景色を眺めるのも、瞑想のうちのひとつだといった。

瞑想というと、その訓練のために時間を別に設けて行うような一日のうちの特別な行事のようにも思えてくるが、実はこれも考えようで、何を瞑想と定義するかによって、見方もまったく変わってくる。

しかし、phaさんはけして、何か宗教に帰依し、あるいはマインドフルネスの信奉者というのではなく、ただ、退屈な時間も取りようによっては、心を鍛練する絶好の機会だといっているだけだ。

彼は、著書「どこでもいいからどこかへ行きたい」(幻冬舎文庫)で自分の旅のスタイルを紹介している。「よく知らない街の安っぽい寝床で眠りにつく瞬間が一番、「旅だなー」って気分になる。その一瞬の「感じ」を味わうために僕は旅に出てしまうのだと思う。」

phaさんはけして贅沢な旅をしない。旅先でも普通に安い牛丼を食べ、安い宿にとまり、長距離を移動する場合は、夜行バスを利用したりする。けれど、それがまた旅にユニークな特徴を持たせてくれるのだ。

かつて、彼は、家にいて気分が鬱屈してくれば、ビジネスホテルに泊まりに行くとブログで紹介していた。ビジネスホテルは、快適にくつろげるだけの設備はひと通りそろっている。冷蔵庫もあれば、風呂もあり、クーラーも効いている。ちょっと日常の雰囲気を変えるには、ほどよい投資なのだ(もっとも最近はビジネスホテルも料金が上がってきて、気軽に時間つぶしで一泊するというわけにはいかなくなってきている)。

旅に出るにしても、せっかくだからときばって贅沢するのは旅が下手な証拠といえるかもしれない。かつて、太宰治は井伏鱒二を評して、旅の上手い人はけして無理をしない、というようなことをいっていた。

「無理をしない」これは、旅行にも日常生活の運営に適応できることだ。

日常生活を旅の延長を考えてみる。

贅沢をしない旅行が日常の延長だといえるなら、日常生活も旅の延長だとはいえないだろうか。

美術鑑賞が好きなひとなら、ひょっとしたら経験があるかもしれないが、絵画を熱心に観察すると、鑑賞者もちょっとずつ事物へのものの見方が変わってくる。

いままで、まったく気にもとめなかった自動販売機や、どこにでもあるような電信柱の陽だまりに目が留まるというような。

僕は、もう子供のころから、何十年も文学に触れてきているのだけれど、とくに風景描写にこだわった小説を読むと、普段の散歩のおり、「あ、これは堀辰雄の『美しい村』に出て来たような景色だな」とかと、こじつけであっても日常の景色を楽しめるようになった。

芸術家にとって、日常というものは存在しない。常に旅をしているような心持で生活をしているので、何の変哲もないところに定住していても彼の暮らしは旅行しているのと変わりはない。

詩人のリルケは、かりに独房に入れられてもそこに何かを見いだせると手紙に書いている。

芸術家の目を持つことができたなら、日常生活は、ぐんと楽しみが増える。

でもこれは、特別なことではないのだ。普段より、ちょっと丁寧に生きてみる、ちょっと丁寧に手を洗う、ちょっと丁寧に片付けをしてみる、これだけで、徐々に見える風景は変わって来る。

何も贅沢なホテルに泊まりに行く必要はないし、季節が変わったからといって、観光名所に行く必要なない。

変化はつねに足元にある。

では、また!

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