瞑想は変化も安定ももとめない。マインドフルネスはすでにあなたの中にある。

エッセイ

瞑想を始めたときの動機というのは、みなはっきりとしているだろう。

悩み事を減らしたいとか、集中力を高めたいとか。

しかし、著者のアンディさんにようると、求めるこころでは、安定は得られないのだ。

不快なことを恐れなくなってはじめて静かになれる。

マインドフルネスはすでにあなたの中にある。

「頭を空っぽにするレッスン」という著書のなかで、アンディ・プティコムさんは、かつて仏僧であったとき、導師からこう教えられたそうだ、「その時の気分がどうであれ、心は本来、青空のようにつねに変わらないのだ」。

人間というものは、つねに何かを変えたいと思う衝動をもつ。学校や職場でいやみったらしいひとがいれば、とにかく、相手に性格を変えてほしいと願う。自国の経済が悪くなってくれば、とにかく何であれ「変革」をおこさなければならないように思ってしまう。

そう思うこと自体は、この著者も否定はしていない。が、肯定もしていないようだ。

また、変化の欲求の矛先は、自分自身にも向けられる。職場の環境が悪いのは自分のせいではないか、もしそうなら、自分こそが変わらなければ。これは、いかにも誠実で美しいこころのようにも思われるが、変化にたいする執着が強いということでは、前者も後者もまったく一緒だ。単にベクトルが違うだけともいえる。

著者のアンディさんは、瞑想をしているとき、必死に「変わろうとした」と述べている。座って動かず、静かに瞑想をしているはずなのに、頭のなかには、雑念がいっぱいで、それを振り払ってこそ、安定がえられると思っていたのだ。

安定は、自助努力をすることにより、ようやく掴めるもので、待っていてはいけない、という固定観念。

しかし、導師はそれとはまったく反対のことを述べたのだ。

「青空はすでにある」。

つまり、いろいろな雑念に頭が犯されたとしても、人間精神のその本質というのは、からっぽで非常に気負いのないものなのだ。それを知ることで、アンディさんは目が開かれたといっていた。

すでにあるものを意識するか、今ないものを求めようとするかで、瞑想の態度は大きく変わって来る。

不快なこと恐れない

また、かの導師はべつのところで、このようにアンディさんにのべている、「いつも心地よい体験をしたいという欲望を捨て、同時に不快な経験をすることへの恐れをすてることができれば、静かな心が手に入る」。

良いものというのは、ずっと所有していたいと思うのが、人間の正直なこころだが、そうする必要はないと導師はいっている。

人間の恐れとは失うことにある。

金持ちは、点々と働く場所や住む場所を変える人が多い。それは、少しでもお金を損しないように、税金が安いところや、政情が安定しているところを常にもとめているのだ。

金持ちがもっとも恐れているのは、自分が「金持ち」でなくなることだ。つまり彼らにとっては快適な生活と、それを維持できる金というのが、「良いもの」となっていて、それを失うのが意識しないでも恐い。

しかし、導師の話を引用するとすれば、金持ちは「お金がなくなる」という状況、あるいはそうした不安を恐れないことでしか安定は得られない。

しかし、金持ちでなくとも何かを失うということは恐いことだ。健康なひとは病気になるのが恐いし、普通にサラリーマンをしていても、やはり、仕事を失うのは誰だって恐い。

ただ、ドストエフスキーはいっているが、人間とはどんな状況にも適応できるもので、無暗に先を恐れるほうが状況を悪くしてしまう。

瞑想でいうと、マインドフルネスをいつも求めないということだ。

雑念があってもいいし、それで不快になってもいい。

良きものへの過度な執着をすてると、人間はいろいろ様々な状況に適応できるようにできている。

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