シンプルに生きるのは難しい? ミニマルな魅力と困難さ。

エッセイ

シンプルに生きるのは、案外難しいのもで、シンプルさに執着するあまり、余計に混乱が生じることもある。

ミニマリズムもラディカルになると、生活にリスクが増える。

哲学者がいうように中庸こそが、生きるカギだが、それを悟るのも、一朝一夕にはいかない。

ミニマリズムに見る、シンプルの困難さ。

ミニマリズムという言葉が流行したのはいつごろだろうか。

いまから十年ほど前には「断捨離」という本がたいへんよく売れて、タイトル自体が流行語にもなった。断捨離とはその名前の通り、不要なものを捨てるそのこころ、あるいは技のことをいう。ミニマリズムと非常に親和性のある概念で、おそらくそのころにはもうミニマリズムという概念は海外から入って来て、一般に定着していたのかもしれない。

ミニマリズムとは、過剰にものを求める、マキシマリズムとは反対を行く考え方のことだ。単に、ものを少なくする、依存を減らす、というだけでなく、生き方自体もシンプルにしようという、それまで根強くあった、もの中心主義の二十世紀型の価値観へのいうなればアンチテーゼでもある。

僕は、ものへの執着を減らそうとすること自体は悪いこととは思えないし、むしろ、所有欲の過剰が環境破壊を招いていることを考えれば、不必要なものはやはりもとべるべきでないように思う。

一方で、このミニマリズもラディカルになると、いざ緊急事態となると、「ものがない」ことで、生活に非常な困難をきたす要因にもなることが最近分かってきている。ものを減らすということに執着するあまり、必要な備蓄も捨ててしまって、病気や災害などが起こったとき、対処ができないのだ。

このあたりは、数千年の昔から、哲学者が説いてきた、「中道」とか「中庸」といった概念にもういちど帰る必要はあるだろう。

シンプルに生きるのは魅力的だし、健康的だし、地球環境にもいい、問題は、シンプルさに対する過剰な執着なのだが、これも、変に理性的に考えるより、「過剰さ」の失敗経験から学んで行く方が、より「シンプルさ」を理解する助けになると僕は思う。

他の哲学と一緒で、ミニマリズムにおけるシンプルも一朝一夕には習得できない。

日本文学のシンプルさ。

シンプルを理想とするところは、なにもミニマリズムに限ったことではない。

日本料理も素材を活かすということで、味付けは非常にシンプルだ。日本庭園は、自然を模倣する、つまり、余計な装飾を嫌い、これもシンプルである。また、禅にいたってはもう言わずもがなだろう、只管打坐とは「ただ座る」の意で、ここにシンプルの極致がある。

僕は、日本文学を長年学んできたが、伝統的な日本文学の求めるところも、やはりシンプルさにある。芭蕉は、俳句から、情念を削る方法を学び、のち随筆でそれを活かした。「奥の細道」の文体は、いたって平易で、これ以上ないほど、シンプルだ。

僕は二十代のころ、井伏鱒二をよく読んだが、彼も芭蕉から文章の妙味を習得している。井伏さんも諧謔に走った初期の短編を除けば、ほとんど、淡々としたリズムの平易な文章で大部分の小説を書かれている。彼はお弟子さんたちに「散歩するように書く」のがいい、と語っていたそうだ。

情熱をこめて、「野心作」なるものを書き、文壇に認められようと考えるのは、むしろ、野暮で、禅の修行のように、ただ書くべきだから書く、それ以外の情念は捨てるがいい。

けれど、何か趣味であれ、ひとつのことに徹したひとなら分かるだろうが、これが難しい。

ついつい過剰なものを見てしまうと、自分も真似したくなる。また、自分を抑えすぎるとこれもまた過剰となる。

文学を見ると、文学者はみな、シンプルさのために、長い時間をかけている。焦らないというのもシンプルさの教理のひとつだ。

では、また!

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