中庸を悟るポイントは習慣化。

エッセイ

中庸とひとこと聞いても、それがどういった概念か分かりづらい。

もちろん、それは中途半端の意味ではないし、バランスをとって真ん中らへんを行くのでもない。

それは、何事かをルーティンで行うことのなかにあるもので、言い換えれば、習慣化こそが中庸の哲学だ。

カトッリク修道院は、中庸を重んじる。

カトリックの観想修道会ではどこでも、ルーティンが決められている。夜が明ける前に起きて、礼拝に出、祈り、朝食をとったあとに労働をする、それぞれの課題は時間がきっちりと決まっていて、シーズンごとに時間配分は変わっても、ほとんど毎日、毎月、毎年と、同じことの繰り返しが続く。

ストイックというと、人間がもつ様々な欲求に対し、悲観的で否定的なイメージが日本ではもたれているが、カトリックの修道会においては、極端なストイシズムはかえって害になると否定されている。

例えば、古代の東方教会において、禁欲に徹するために、鎖でもって壁から動けなくしたり、ほんの小さな欲求に屈しただけで体にムチを当てたりしたが、のちに、それらはかえって罪を養成するものとして退けられた。

ベネディクトゥスの時代から、修道院で目指されて来たのは中庸である。極端なストイシズムは避けながらも、欲望をある一定の方向に抑制することは尊ばれるのだ。

中庸と言うと、いかにも東洋的な観念であるが、西洋哲学においても、プラトン、アリストテレス、それからキリスト教が西洋の宗教になってからも、アウグスティヌス、トマス・アクィナスらの哲学は、中庸なしには語れない。

そして、修道院の歴史からも分かるように、中庸を悟るには、長い年月をかけて、知的にも身体的にも、訓練と勉強が必要になって来る。

もちろんだけれど、中庸とは、中途半端と同じことではなく、また理性的にバランスをとって、真ん中らへんを行くことでもない。

それは、多少なにかしらマインドフルネスなどを経験したひとなら、気付いていることだろうと思うけれど、しかし、中庸と中途半端の違いとは簡単なように見えて以外に難しい。

自分が中庸と思い込んでいるものがはたから見ると、中途半端であったりする。

ある意味で、この悟りもメタ認知の一種で、知的にも相当訓練されないことには認識もできない。

中庸は習慣化のなかにある。

そこで、鍵となるのが、ルーティンである。

一時期話題になって(いまでも人気があると思うが)よく売れた本に、生活の習慣化をテーマにしたものが、たくさんあった。「ぼくたちは習慣でできている」とか、「仕組化、自動化、習慣化」など、正確な文言は忘れてしまったが、僕もそのうちのいくつかは読んだように思う。

「一時期話題になって」と僕はうっかり書いてしまったが、このテーマはずっと昔からビジネス本などでは定番で、僕も高校生の時、大学受験の攻略本などで、習慣化をうたう本はたくさん見た覚えはある。

つまり、習慣化とは、人間が社会生活をうまく運ぶためには必要不可欠な概念であるのだ、それこそ、修道院や仏教の道場の歴史を鑑みれば、数千年の歴史があるし、それは人類の農耕社会とおなじだけの歴史あることだろう。

これだけ長い歴史があり、今なお必要なメソッドとして推奨されているということは、これがあらゆる分野で根本的に必要な概念ということだ。もちろん、中庸を学ぶ上でも。

僕が思うに習慣化こそが中庸だと思う。

トマス・アクィナスは、善(つまり抑制、節制)を行うこともそれが習慣化すると心地よくなるといっている。つまり、習慣化自体に、バランスの力学が働いているのだ。

習慣化さの先に中庸があるのではなく、その最中にこそ哲学がある。

つまりマインドフルネスふうにいえば「いまここ」である。

では、また!

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