やりたいことをやって生きて行けるだろうか。やりたいことの見つけ方と、やりたいことへの取り組み方。

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やりたいことで食べて行けたなら、それで誰も文句はないとないと思うが、なかなかそうはいっても難しい。

なかにはやりたいことが見つけられないひともいる。

やりたいことはあるけれど、不安でそれに集中できなひともいる。

しかし、そうした困難さは目の前に回答があったりする。

やりたいことの見つけ方。

インターネットが発達して、起業する敷居がどんどん下がってきている。一昔前なら、それこそ人脈がない者、営業センスがない者、資金がない者は自分でビジネスを起こすことはできなかったし、必然、起業家も四十歳以上のひとが多かった。

いまは、Twitterにフォロワーが多いだけでビジネスになるし、例えばブログにしてもそれで稼ごうと思うなら、テクニックと根気さえあれば、月々のサーバー代の千円ちょっとで起業ができてしまうのだ。

起業家というのは、誰でも自分の好きなことで仕事をしている。ほんとうはこんな仕事したくないんだよね、というような消極的な思いでは、だれもリスクを取れない、これならやれるという自信のある分野と、自分の興味関心がいい具合にブレンドされてようやく腰が上がるというものだろう。

しかし、なかにはビジネスを始めたいけどやりたいことが分らないというひともいる。何に打ち込んだらいいのか分からないし、何が正解か分からない、だから何もできなくなってしまう。

でも、逆にいうと、そういうひとは、必死で何かに打ち込んだ経験がそれまでになかった、ということでもある。受験勉強など「やらされてやる」ことをいくら頑張っても、意志は育つどころか、むしろ萎えていく、大学生になってようやくというときに何をしたらいいのか分からない、というひとも多いようだ。むしろ、部活などに精一杯打ち込んだひとのほうが、はっきりと、自分はこうしたいというような明確な目標を持つのかもしれないが、それはあるいはこちらの偏見かもしれない。

やりたいことが分らないひとは、やりたいことを探すのをいったん諦めてしまうのがもっとも健康的な方法だと僕は思う。

「自分の好きなこと」に打ち込んだことがなく、自分が好きなことがあっても(例えばアニメを観るとか)そちらの方にいくのは、なんとなく、罪深いような気がしてくる。

これも日本の教育とか社会が生み出している悪い側面だと思うけれど、とにかく、そんなことを批判してもはじまらない、やりたいことが分らないというのは変わらない事実だ。

やりたいことをやめてそのあとどうするのか、というと、目の前のことに盲目になってなるしかない、だって、やりたちことを探すことをやめたら、それ以外に選択肢はなくなってしまう。大学生なら、目の前の勉強に励み、どこかに勤めているなら、会社のどうでもいいような作業も引き受けてとにかくやってみる。そうしてみると、「自分が好きなこと」と漠然と思っていたことが、案外そうでもないような気もしてくるし、クソだと思っていた会社が宝の山のように見えてくることもある。こうなると、人間としても一段成長したということになるだろう。

やりたいことが分らないときは、やれることをやるにつきる。これは一種のメディテーションだ。考えることを辞めたら、楽に生きられるといわれるけれど、難しいのは、考えることをやめられないこと。考えを手放しなさい、というようなことを教えている本もあったりするけど、考えを手放そうと思って必死に、何も考えないようにしても、考えは向こうからやって来る。

何かに集中しているとき、スポーツでも仕事でも、それ以外の作業のことは頭にない、これはかなり快感で、「ゾーンに入る」といったりする。「ゾーンに入る」ことができる仕事なら、そのひとにとってはそれは向いている仕事であり、徐々にやりたい仕事になってくる。

やりたいことへの取り組み方。

さて、一方で、やりたいことはあるんだけど、不安になってしまうひと多いことだろう。例えば、アニメが好きで、その方面で独立して仕事をしていきたいにしても、アニメーターは不安定だし、労働集約的でキツいし、体力的に自信がない。

そういうときは、いったん業界をのぞいてみて、いけそうかどうか自分に確認してみることだろう。「無理だ」と思うようなところにがまんして行ったところで、最悪病んでしまうし、すぐに悩みの種になってしまう。

「無理だ」と思ったとき、ふたつの選択肢がある。その道を諦めるか、別の方法で突破口を探すかだ。まずは、突破口を探すことに力を入れてみるがいいと思う。というのも、「無理」と思ってすべてを諦めていては、そのあと別の道に進んだところで、変に「諦めグセ」がついてしまって、自分で道が切り開けなくなってしまう。

余談だけれど、いまは誰だって不安を感じることが多い時代で、それまで安定していると思われていた会社や職業がまったくそうではなくなってきている。とにかく、いわれたことをしっかりやっていたら、それなりに稼げた社会はとうに消えてしまった。資格をとっても、安定しない、ユーチューブを観ると「日本オワコン」とか聞こえてきて不安になる。

これからは、僕が思うに、「安定」を求めて、資格や大きな会社に頼っても気持ちはより「不安定」になってくる。例えば、安定していると思われた大手の新聞社も時代に追いつけずに大量のリストラをしている。

頼れるこれといった保証もないし、そんな組織もない、となると、一番安定した働き方というのは、自分に生きて行く力を身につけることだ。

つまり、「無理だ」と思ったときに、全部あきらめてしまうのではなくて、どこか方法はないかととにかく探し回ってみるとことだ。あるいは、ひとに話を聞きにいくのもいいし、もっともいいのは、ネットの中や、その他のところでも、自分が思い描いている働き方、ビジョンで実際に生活をしているひとがいるかどうか、というのをリサーチしてみることだ。

それには再現性があるか、実現可能としたら、どれくらいの期間が必要だろうか、自分にどれくらいのリソース(それに費やす時間、体力、技能)があるだろうか、というのを紙に書いてみるなどして、整理してみる必要もある。

そして、少しでも可能性が見えたならそれに本気で取り組んでみるしかない。

僕の話になるのだけれど、僕は物書きとして生活をしていきたいと考えている。しかし、よく言われるようにいまは出版不況といわれ、本が売れない。それこそ芥川賞のような有名な文学賞を得ても作家は「食えない」。だから、物書きとして、しかも、小説やエッセイを書いて食べていこうというのは、いかにも無謀なことのように思えて来る。

一方でさきに書いたようにこの状況から逃げていると、より不安は大きくなってしまう。

だから、僕はいろいろリサーチをして、突破口を探し始めた。

物書きとして、現在、食べているひとはいるか? 実際にいるのだ。僕が好きなエッセイストのphaさんがまさにそうで、彼はnoteというプラットフォームでマガジンを発刊しそれで収入を得ている。で、こういうひとたちはそう贅沢暮らしをしていないようだけど、ままいるもので、文章を書くことが好きなひとなら、再現性も高い。

「やりたいこと」には、すでにそれで食べているひとたちはいるもので、そういうひとたちを真似て(あくまで、方法を)、仲間をどんどん増やすなり、どこかコミュニティに入って情報を共有する、そうることで意外と夢も見えて来て、不安にも慣れて行く。

では、また!

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