文化的バイアスとは何か? またその対処法「いったん待ってみる」

エッセイ

文化的バイアスは誰しもが持っている。

「アメリカ人はこう」「中国人はこう」「キリスト教徒はこう」「女はこう」安易な定義づけから人間は自由になれない。

しかし、それを理解したうえで、判断を「ちょっと待つ」ことはできる。

文化的バイアスも「待てる」かどうかで幅が変わる。

「文化的バイアス」は思ってるよりも根が深い。

文化的なバイアスというのは、誰しもがもっているもので、歳を取れば取るほど、自分の持つ傾向が固定化されていく。

なまじ私は宗教についてもこのブログで発信しているので、キリスト教、仏教を問わずいろいろと本を読みあっさっているが、この分野はまあ文化的バイアスのオンパレードである。

最近、あるプロテスタント系の作家の本を読んだが、著者のカトリックへの考え方には、カトリック教徒の私からすると、少し偏りがあるように思われた。「カトリックは理性を偏重し、人間知性でもって神の摂理をあたかも解明できると考えている」要約すると、そのような主張があった。

しかし、カトリック神学において、実は理性は神に向かうアプローチの一部でしかない、中世の神学者であるトマス・アクィナスは、理性で「神の英知」を理解できると考えるのは「神への冒涜」であると考えた。彼の「神学大全」には、始めの方に人間理性に対する警告が述べられている。

この記事で神学論争をするつもりはまったくないので、神学についての込み入った話は避けるが、要するに、宗教においてあるセクトは、別のセクトについて、かなりの偏見を持っているし、一般の世俗社会よりもその度合いは濃くなる。

実は、先にあげた作家(佐藤優氏、私は彼の神学への情熱を深く尊敬している)もこの文化的(あるいは宗教的な)バイアスについては重々承知している。彼は、カトリックやこの教会のエキュメニカリズムについて同調的でもないし、賛成もしていないが、ある一定の肯定的な評価はしている。また、彼自身のプロテスタンティズムについても絶対的なもの、誤謬のないものとはみなしていない、むしろ、そう見ることはプロテスタント教会の精神から外れるものだと考えている。

私は、これはかなり常識的で良心的で、とくにこれからの将来、こういう幅のあるものの考え方はビジネスエリートほど求められるとは思う。

しかし、一方で同じカルバン主義系統のながれにある教会でも福音派ではまた事情が違ってくる。もっとも福音派といってもひとつの団体ではないので、一概にこうと決めつけることはできないが、かなり排他的に(彼らはそれを聖書に忠実だと信じ、自分たちに排他性があると思っていない)他の教会の教義を否定する説教者が多い傾向にある。彼らのことを主流派のキリスト教会はファンダメンタリズム(原理主義)だと非難することがある。一種の文化的バイアスがあるわけだが、こと宗教であるだけに、その密度も強度も高くなる。

日本人の「文化的バイアス」

しかし、これは福音派の多いアメリカだけの話ではもちろんない、むしろ、日本人の文化的バイアスは生活のなかに、長い伝統に育まれる形としてごく自然に入り込んでいる。こういう言説を聞いたことはないだろうか「日本人は多神教で、非常に多様で、寛容な文化を持っている。一方で一神教の文化は排他的で、他者の価値観を認めない」。おそらく、これを聞いて多くの日本人はたいして違和感をもたないと思うが、これこそ、かなりラディカルな文化的バイアスなのだ。

日本文化には誇るべきところは、山のようにあるが、それでも一神教の国々と比較して日本が「多様で、寛容な文化」だと断言できないのは、すこし、海外の情勢に詳しいひとならわかることだろう。佐藤優氏は、日本人のラディカルな保守性については、中国や韓国からだけでなく、欧米からも警戒されていると指摘し、また政治エリートがそれを理解できていないことが危ういとのべている。

文化的バイアスは誰しもが持っているし、放って置けば、歳を取るとともに、強靭化されていってしまう。

最近、認知バイアスについて、メディアで話題になっている。

女はこうで、最近の若者はこうで、アメリカ人はこう、中国人はこう、というように、無意識のうちに私たちはなにかしら対象を定義している。

よくYouTubeの動画で見かけるのは、日本落とし、とも思われるマウントを取るようなマーケティング手法だ。「アメリカは多様性に富み、イノベーションが進んでいる、中国では、大規模な投資に一貫性があり、市場も拡大している、それに比べ、日本はどちらもなく、あらゆる分野で負け越している」。こういう言説にも文化的バイアスは働いている。

アメリカ人、ヨーロッパ人は階層的に上、それを基準にものごとを量るのは、明治以降日本人の意識のなかに刷り込まれている。いや、もっと深く探ると、平安貴族にとって、中国人は上であったのだから、「大国は上」という発想は、日本人の自意識のなかに1000年かけて育まれている。

もちろん、こうしたアイデンティティにおいて、上か下かというような発想はどこの国(小さい国ほどある)にもあって、日本人だけを貶めることはできない。

しかし、こうした文化的バイアスについて、それが不便だとか、格好が悪いと思ったところで、完全になくしようがない。

私は障害者だが、障害とはもう治る見込みんがないから、障害者ということに世間の常識ではなっている。つまり受け入れるしかないが、受け入れると案外いろいろと対処の方法も見えて来るものなのだ。

文化的バイアスについても、ある程度、年齢を重ねたら、じたばたしたところで、そう劇的には変わらない。しかし、勘違いしてはいけないのは、文化的バイアスがその国の本質ではないということだ。これは一種の症状であって(例えばうつ病は、気分の落ち込みが深刻に現れるが、これは症状である。一方で、うつ病は生活習慣や社会的要因から発生する、これが本質である)その国、その人のアイデンティティとなるものは、そこからだけでは判断できないということ。

「文化的バイアス」には「ちょっとまって観て」みること。

つまり、それを理解したうえで、バイアスについて判断する必要がある。庄野潤三という作家は、イギリスのある政治家の言葉を気に入っていた。「ちょっとまって観てみよう」というものだ。庄野は、これはなかなかできないものだ、ともいった。

私はここに文化的バイアスに対処する方法があるとみている。「女は弱い」というのは、あからさまな男性目線から見た文化的バイアスである。「女は弱い」からあるいは「女は合理的判断が苦手」だからそれなりの仕事しかできない、こういうむごいバイアスに男性が気づいたとき、彼はまずいったん待つべきなのだ。

もし彼が六十歳で、こういう文化的バイアスでもって長年社会で生きて来たとするなら、それがいけないとわっていても、なかなか自分の視点を否定することはできない。

禅のメディテーションでは、判断しないようにつとめる。仮に禅のお坊さんがキリスト教を一段下に見たくなっても、そこにはあきらかな恣意性があることになる、つまりだから判断を置くのだ。

「女はこうだ」というような考えを無理やりにねじ伏せることができたとしても、そこには不自然な形の善意しかはたらかなくなって、こういうものは、共感を呼ばない。

自分のなかに文化的バイアスに気が付いたとき(誰にもバイアスはある)、いったん待つ。それができるようになるためにも、普段から、その訓練(メディテーションなど)が必要。

では、また!

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