自分のために書くか、商売のために書くか。書くことが好きなひとのためのエッセイ。

person holding blue ballpoint pen writing in notebook エッセイ
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文章を書くのが好きなひとはたいてい自分のことを書きたいと思うものだ。

一方で、それを生業にしてしまうと、書きたいことが書けなくなってしまう。

「稼ぐ」を目的にすると、「自分」は度外視される。

しかし、書くことで生み出される「文化」もある。

文化とは「自分」の精神活動を支えるプラットホームだ。

他者のために、そして、自分のために書くということ。

ブロガーのphaさんが、著書のなかで「もしそれほど読者がいなくて一銭にもならなかったとしても、ブログを書くことはやめていなかったろうと思う」と語っている。

ブログというと、いまでは「稼ぐ」ためのツールとなってしまっていて、一時期「プロブロガー」というひとたちが、注目されていたころように、自分の個人的な意見を発信するための(彼らもお金は稼ぎたいわけだから、完全なる自己満足ではないにしても)「メディア」としての機能は失われてしまっている。

もっともそれを専門とした、エッセイも書けるし、小説も漫画も載せていいようなnoteというようなプラットホームもあって人気もあるけれど、それでも一時期のブログブームに比べると、ちょっと寂しいような気がしないでもない。

でも、書くとは本来、自分自身のためにあるものだ。いや、もちろん、意志を伝えるためのツールでもあるので、他者は必要となる場合の方が多い、小説家も誰も見ない自分の日記に延々、自分の傑作となる作品を書いたりはしない、やはり、誰か読者は欲しいと思うものだ。

しかし、「稼ぐ」ことだけを前提した文章を書いていてもやはりどこかで書き手は、それ以外の文章を求めてしまう。

儲かる文章にはまず、「自分」というものが介在する余地がない、のっけから、「儲ける」ために書くので、自分の本来性というものを、脇に置いてしまうのだ。phaさんがいった「それほど読者がいなくても」というような控えめな発想は、「稼ぐ」ためにはあってはならないし、そうなると、「稼ぐ」ことはできなくなってしまう。

稼ぐためには、他者が必要となる、他人に合わせるためには、わがままはいってはいられない。

小説家のことを考えたら分かりやすいと思うが、小説家は自分の書きたいことを書いてそれで生計を立てている恵まれた職業のように思われることがしばしばあるようだが、彼らの作品を読めばけっしてそうでないことがよく分かる。自分の世界観を自分のやりたい独自の方法で自由に書いたところで、まず売れない。エンターテイメント作品を読めばすぐに分かるが、かなりがちがちにフォーマットが決まっていたりする。

つまり、小説家のような「自由業」であっても、自由にできる裁量はかなり制限されているのだ。

小説家も本が売れなければ活動が続けられないし、昨今の出版不況で、「売れる本」としてのフォーマットもほんの五年、十年前よりも、厳しく求められているような印象を受ける。

やはり、稼ぐためには、自分のことを度外視して書かなければならないのか、自分のことを表現するには、日記しか許されないのか。

これも小説家を例に出して考えればわかりよいと思うが、優れた作家ほど、自分の方法を持っている。エンタメ作家はかなりきつくフォーマットを求められるが、それでも、文体を持っている人はそれを乗り越えている。「残月記」の小田雅久仁さんや直木賞作家の佐藤究さんの作品は、文体の力がフォーマットを見えなくしている(現代のエンタメである以上、型はあるにはある)。

これができるのは、小説が文化だからだ。文化というと曖昧でおおざっぱな表現に聞こえるが、人間の精神活動を支え生み出してくプラットホームと考えると理解しやすい。小説は商売の道具である、しかし、文化でもある。そして、自分の本来性というものは、文化のなかで、生成していくものだ。

では、また!

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