田舎暮らしをするにしても、都会のくらしをすべて切り上げて引っ越してしまうのは、リスクが高い。
そこで、ちょっとだけ田舎に住むという方法を考えてみたい。
田舎は物価が安いので、都会とは別にもう一軒部屋を借りるのにコストはそうかからない。
年に何度か田舎に瞑想に行く。
それがちょうどいい。
田舎にもいろいろな場所がある。
都会の生活はとにかく忙しい、コストも高くつくし、人間関係もそっけない、都市生活でそんなふうに思うひとも少なくないとは思う。
そんなときはやっぱり田舎に憧れる。
だいたい都会人の頭のなかにある田舎というのは、物事がゆっくりと動いて、ひとも親切、そしてなによりもコストが低くすむ、というようなところだろうか。
あながち間違ってはないだろうが、「ひとが親切」にできているか、というと、当たり前だが、人間だから千差万別といったことだろう。
井伏鱒二という作家がいる。昭和期に活動したもう古い小説家だけれど、彼はよく田舎の因習を書いた。それを読んでいると、東京のひとよりも、田舎のひとたちのほうがよほど気難しい。もちろん、それだけにおもしろみもあると受け取れるのだけれど。
田舎といってもいろいろとある。
私は奈良の大和郡山市に住んでいるが、はっきりいって、田舎だ。私の住まいのマンションの周囲は、田んぼと畑と川しかない。けれど、草深い山里というわけではなく、少し歩けばイオンもあるし、JRの駅も歩いてニ十分ほどで行ける距離にある。
田舎だが不便ではない。
そして、人間関係もほとんどないといってよく、マンションの住民同士でひと付き合いなんてまずない。個人主義も進んでいる。
一方で作家のphaさんが紹介していたが、まさに山の中、交通も不便という田舎もある。
彼は熊野に滞在されたわけだが、周囲はもう山しかない。ひとも少なく、大阪など都市圏へのアクセスもかなり不便だ。
しかし、これは日本の優れているところなのだけれど、こんなど田舎でもインターネットは通っているのだ。それにphaさんによると、常に人手不足なので仕事探しにも困らないということだった。
ときどき田舎にメディテーションに行くという考え方。
しかし、田舎暮らしがそのひとに合っているかどうかというのは、実際に住んでみないと分からない。やってみないと分からないというのは、田舎暮らしに当てはまる。
phaさんは「田舎と都会のいいとこ取りをしよう」といっている。
田舎に家を借りるなり買うなりして(住むのにまったく問題のない物件でも田舎では200万くらいで売りに出されていたりする)定期的に田舎の空気を吸いにいくのだ。
これなら、東京の暮らしを切り上げる必要もないし、田舎の閉鎖性にうんざりしてもそこで頑張る必要もない。
解剖学者の養老孟子さんはこれを参勤交代といったりしている。
私は、このブログでしばしばメディテーションの話をしているが、瞑想の視点からも田舎で過ごす時間は非常に貴重だ。
東洋の哲学、宗教は自然を愛でることによって発展してきている。
日本庭園は、シンメトリーを避けようとつとめるが、それは、自然にはシンメトリーがないからだ。
しかし、東京や大阪の街中をあるいていると、そこに並んでいるビルはほとんどシンメトリーを基調としている。
もちろん、大阪も東京も街を俯瞰してながめると、シンメトリーでだけでは物語れないものはたくさんある。このあたり、パリやニューヨークと違うところだろう。
しかし、シンメトリーのない世界をダイレクトに味わおうと思うなら、やはり自然のなかに行くしかない。
私はよく自宅から近い奈良公園にいくけれど、奈良公園ははっきりいって人口の公園だ。
けれど、自然を自然のまま残している。
自然の道は凸凹している。東洋の哲学はそこに調和を見出している。
では、また!
コメント