読書でもメディテーションはできる。
作家、詩人の書いたものでそれがメディテーションになっていないものはない。
読書論というと作家の数だけ読書論があるものだが、共通してみな「便利なメソッド」を選ばなかった。
むしろ、遠回りしてゆっくり読むことを好んでいる。
読書はゆっくりとする。
読書をする理由にもいろいろとある。
知識を集めるため、教養を深めるため、あるいは知識人ぶるため。昭和の時代までは読書は娯楽だった。いまのひとがテレビを観るように、スマホを眺めるように、本を読んでいた。
インターネットが普及して、読書をするひとも徐々に減ってきているということだが、ビジネスの最前線で活躍する人はいまでも熱心に本を読んでいるらしい。
アメリカの有名大学では、日本の大学とは比べ物にならないくらい本を読まされるらしく、ついていけなくて、ドロップアウトするひとも多いようだ。
でも、本の世界にもいろいろで、情報を取ることができたら、それで充分な本もあれば、ゆっくりと読まなければ理解できないような本もある。
私はこの記事で本でメディテーションをすることをすすめているわけだけど、そのためには、やっぱり本はゆっくりと読んだ方がいいと思っている。
すべての本をゆっくりと味わって読むべきだとはさすがいうつもりはない。ビジネス書の多くは、情報が取ることができたら、それでもう必要がなくなるものも少なくない。なかには二、三年もたてば情報が古くなり、役に立たなくなるもある。
そういう本は速読でさらっと流して読めばいいと思うが、メディテーションとして使う教材、例えば、文学書や哲学書は、それこそ一ページに三十分、一時間かかってもゆっくりと思いを込めながら読まないと、そもそもメディテーションにはならない。
作家の佐藤春夫は「文学とはゆっくりとやるものだ」といったが、作家、あるいは、詩人でその作品がメディテーションでないひとはいない。
リルケの詩や手紙を読めば分かるが、彼はペンを動かしながら祈っているのだ。それを読み取るにはゆっくりと読むしかない。
作家はみな遠回りして本を読む。
では、ゆっくりと読むのはいいとして、具体的にほかにどのような方法があるだろうか。
作家の読書論を読んでみると、それこそ作家の数と同じくらい読書論がある。
リルケは若い詩人に向けて、批評文やジャーナリズムは読むなといっている。これは極端な意見ではあるが、少なくともリルケのような観念的でほとんど理性をはなれた宗教世界に降りていこうとすると、批評やジャーナリズムのようなロジックに非常な執着のある文章は障害にしかならなかっただろう。
一方で遠藤周作という作家がいる。彼はリルケを若いころ非常に熱心によんだけれど、彼は批評文も書いている。
作家にもいろいろと私はいったが、リルケのようにロジックが嫌いなひともいれば、遠藤周作のようにロジックでものを理解しようとするひともいる。
彼は、読書論のエッセイのなかで、「作家読み」をすることを勧めている。Aという作家が好きならその作品を全部読み、Aが影響を受けたBという作家の作品も全部読め、というのだ。そうするとまとまった文学観が得られるという。
これも一種のロジックである。
しかし、遠藤さんが論理ばかりで語り、メディテーションをしなかったかというとけしてそうではなく、彼の「沈黙」という作品は、それなくして書かれなかった。ロジックというのは作家にとってほんの一部でしかない。
リルケと遠藤さんに共通しているところは、便利なメソッドを選ばなかったことだ。むしろ、遠回りをしている。時間をかけてあえて答えを見つけようとしない。
しかし、すべて実のあるメディテーションはそういうものだ。
では、また!
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