思考に頼らなくなると、静けさがくる。

エッセイ

思考に頼っていると、どうしてもあたまが忙しくなる。

それでは、思考をやめればいいのか。静かな生活に思考自体は重要ではなく、あってもなくてもいい。

というより、あってもなくてもいいと考える方が重要で、いかに偏らないかがキーとなる。

それを中庸といったりする。

隠居のすすめ。

考えることと静かな生活は共存できるだろうか。そういう問いを立ててみたとする。結論からいうと、静かな生活に思考そのものは重要ではない、ということだ。

重要ではない、ということはなくてもいいし、あってもいいということ。別にあってもいいが、それは重要ではない、というより、思考することも体の一部であるので、常について回ってくるのだけれど。

先日、phaさんの「持たない幸福論」というのを読んだ。そこに隠居のすすめというのがでてくる。

日本ではこれまで、四十年働いて、そのあとに隠居ということだったが、それもシステムが整っているからできたことで、これからは、年金がもらえる額も年齢も変わってくるし、第一、年金をもらえる年齢まで生きていられるかわからない、それなら、もっとはやくから、隠居の練習をしておこう、というような主張だった。

でも、phaさんは、会社を辞めてニートになれと、極端なことをいっているのではなくて、お金をかけない遊びを覚えるように提案しているのだ。

例えば、本を読むのが好きなら、図書館に行くとか、古本屋に行くとか、あるいは将棋をしてみるとか(将棋は板と駒さえあればそれで何時間も時間が潰せるのでコストパフォーマンスがいい)、インターネットで友人と雑談するとか、工夫すれば「隠居」の練習はいくらでもできる。

隠居というのがいい。隠れるという言葉がある通り、そこからは世の中からちょっと外れて、ひっそりとしているようなイメージがある。phaさんは、趣味を持つことを勧めているが、単に時間つぶしのためだけというよりは、それによって、いろいろ他のことを考えずにすむからだ。

思考に対しては中庸。

暇があるときにもっとも苦しいのは、悩み事がやって来たときだ。なまじ体はやすんでいるので、頭は忙しい。

古代のギリシャ人やローマ人は早くに隠居してしまうことを理想としたらしいが、例えば三十代でリタイアしてそのあと、食って、寝て、を繰り返すのではもちろんなくて、残りの時間を全部、哲学に費やすのだ。

体が休んでいるので、頭は忙しい。だから、頭をフルに使ってやろうということだ。

これも一種、phaさんのいうところの趣味にあたいするだろう。

しかし、余った時間を哲学に費やして、逆に忙しくならないだろうか。

大半のひとは、静かな生活をしたいから、隠居するのであって、あんまり難しいことには頭は使いたくない。

古代の哲学者でアウグスティヌスというひとがいる。彼も早々に隠居して哲学にはげんだひとだ。

西洋哲学にありがちなように彼の哲学も論理で進められて行く(彼は西洋の哲学者とみなされてはいるが、アフリカ人だ)。神の存在をフィジカルな例えを用いて証明しようとしたが、ある解説書によると、彼が見出した答えは中庸である。

思考を巡らして、けっきょくどちらにも偏らない方法を見つけたのだ。これにはもちろん、哲学を思考のみに頼らないことも含まれるだろう。

中庸というと、東洋人にはピンとくるものがある。

日本文学が古典から脈々と受け継いできている文章表現も中庸である。芭蕉も夏目漱石も川端康成も村上春樹も、文章をどちらかに寄せない、これがモットーである(もしろんこれは意識してできることではなく、これも中庸だ)。

そして、彼らの多くの作品には、静けさが隠れて住んでいる。思考に頼り過ぎない。

これもひとつのメディテイションだ。

では、また!

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