思考はしているのではなくて、させられている。だから、やめられない。

エッセイ

思考というのは、やめようと思ってもなかなかやめられないものだ。

それは、思考が私たちがそう思っているほど、こちらが能動的に行っているものではなく、受動的なものだからだ。

哲学者トマス・アクィナスは、愛は、受動的だといった。

思考がやめられない原因は、思考への「愛」が受動的だからだ。

思考は能動的になものではなく、受動的なもの。

考えるから不安になるのであって、考えなければ、不安も生まれない。

その通り。数学の公式のようにそれ以外の解答などありえない。

しかし、そうできなから困る、というのが、みんな共通してもつ悩みだ。考えなければいい、といわれて、考えをやめられるひとというのは、おそらく、もとから不安になるほどの考えをもっていない。

「考える」という言葉は、英語でいうところの能動態になるが、実際は、考えがやめられないというのは、「考えさせられている」という状態で、受動態になっている。

山本芳久という哲学者の本で「世界は善に満ちているという」という本がある。トマス・アクィナスについて解説した本で、そこに興味深い言葉がでてきた。

「欲求されうるもの」すなわち魅力的なものによって、「欲求能力」すなわち心が被る変化が「愛」にほかならない、とトマスはのべています。

「世界は善で満ちている」(新潮社) 山本芳久

ここでは、トマスの愛について解釈している。愛とはつまり、優れているもの、美しいもの(例えば、おいしい料理や芸術作品)など魅力的なもの(欲求されうるもの)に、こちらの心(欲求能力)が動いたときに生まれるというのだ。

愛とトマスはいうけれど、これはとくに我々日本人が思い浮かべがちな、センチメンタルなものだけを指すのではなくて、自分な好きなもの、例えばゲームなどの趣味やおいしい料理など、日常生活で私たちが意識せずにもっている執着のことも含まれる。

この文脈では「愛」は受動的なものだ。心が魅かれるという日本語の表現があるけれど、つまり、こちらにイニシアチブはないということになる。

この考えによると、思考も例外ではない。

考えて不安になってしまうということは、ある事柄に対して、考えさせられているということになる。例えば、ローンが返せなくて困っている、どうしようかと考える。この場合、先ほどの理屈でいうと、ローンを返した状態というのが、魅力的な状態になっていて、それについてこちらの心が動く、考える、つまり「考えさせられている」という受動的な立場に置かれている。

第一、ローンがなければローンのことなど考えない。

けれど、それだけにやっかいといえるのではないか。受動的ということはこちらにイニシアチブがないわだけど、それだけにこちらに切れるカードは限られている。

アルコール依存について考えたい。アルコール依存はまぎれもなく、受動的な状態だ。さっきの理論によると、彼はアルコールに心が魅かれている、つまり愛が発生している、けれど、理性はもうアルコールと手を切りたいと考えている。でも、できない。これが受動的な状態の悲惨なありさまだ。

これと同じように、思考も、ある事柄に心が魅かれている、でも、理性はもう考えたくないと思っている。でも、できない。受動的な状態だ。

アルコールをやめようと思うひとは、まずリハビリをするのがいいとされている。軽作業をしたり、日記をかいたり、ひとと話したり、つまり、アルコールから多少なり考えを逸らそうとするのだ。

けっきょく、思考に対して、それをやめようと思考で対処するのは、ワインをやめようと思って、それよりちょっと度数の低いビールで禁酒しようとしているのと似て、かなりナンセンスな話だ。

ある禅僧は「ひとつのことに集中せよ」といっていたが、家事でも仕事でも趣味でも、それをしているときは、それに集中する。思考への薬はこれしかない。

では、また!

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