アダムとイブというと、旧約聖書に登場する人物で、神に禁じられた「知識の実」を食べたことエピソードでも有名だ。
「知識の実」を食べたことによって彼らの目は開けて、価値判断が生まれるようになる。
価値判断というと善いことのイメージもあるが、同時に困難の原因でもある。
価値判断(ジャッジメント)がいまの世界を生んだ。
阿部敏郎さんのブログに「アダムとイブ」というタイトルの記事を見つけた。彼はいわいるスピリチャル系(ひょっとしたら阿部さんはそういう言葉を嫌うかもしれない)のブロガーで、主に仏教や神道について言及されているが、たまにこうしてキリスト教の文脈でも文章を書かれる。
この記事にこういう解説があった。
「知識によってジャッジ(判断)が生まれたのです。それが苦悩の始まりとなりました。」
かんながら 阿部敏郎
阿部さんはここでアダムとイブについて言及されている。
アダムとイブというと、聖書について多少知識のあるひとなら、聞いたことがあるかもしれないが、旧約聖書の創世記においての始めの人間のことだ。
神は大地をつくり、鳥や魚や這うものをつくり、第六日目に人間をつくった。神はその人間(アダム)にひとつ忠告を与えた、それは、園のすべの木から取って食べてはいいのだけれど、善悪の知識の木からは決して食べてはならない、というものだった。
のちに、アダムは自分の片割れであるイブと一緒にその実を食べてしまう。蛇(悪魔の象徴)にそそのかされたからだと、聖書には書いてある。
ここで阿部さんがいうように、人間にジャッジメント(判断)が入ってくる。
ふたりは、自分たちが裸であることを恥じて、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆う。神にどうして、実を食べたのかと問われると、アダムはイブのせいにして、イブは蛇のせいしてしまう。
ジャッジメント(判断)の始まりだ。聖書には「目が開けて」と書いてある。
阿部さんは、ほかにも興味深いことを書いている。
「物心がついたとき(自我が生じたとき)が、知識の実を食べたときだと言ってもいいでしょう。」
かんながら 阿部敏郎
つまり、アダムとイブの物語は、いまでも、私たちひとりひとりの生活のなかに入って来ていて、どこかで私たちは知識の実を食べてしまっているのだ。
物心ついたとき(自我が生じたとき)に、ジャッジメント(判断)が生まれる、あるいは罪への責任が生まれるという考え方はキリスト教会にもあって、例えば、正教会では、幼い子供は自我がないので、たとえ信仰がないまま、死んでしまったとしても、神のまえで罪に問われないというのだ。
「罪」とかという言葉を聞くと、日本人はとくに重々しく深刻なイメージを持ってしまうが、キリスト教の信仰において「罪深い」という意識は信仰を深めるために不可欠なもので、やがては、「罪深い」という意識が深い慰めに変わっていく。
と、このあたりで、「罪」の講釈は辞めておくが、罪というのに抵抗があるなら、阿部さんのおっしゃるようにジャッジメント(判断)ととってもいいと思う。
ジャッジメントとはないかというと、価値判断のことだ。何かを善いといって、別のものを悪いという。
それ自体悪いことではないように思われる。例えば、殺人は「悪」、ひとを助けることは「善」。それは間違っていないように思われる。
けれども、聖書の創世記の話に戻ると、アダムとイブが知識の実を食べる以前は、殺人が「悪」、人助けが「善」というような発想がなかった。なぜなら、そもそも「殺人」も、助けが必要なほど困っているひともアダムとイブが住んでいたところにはなかったからだ。
つまり、知識の実によってジャッジメントが生まれたことが、すべての困難の原因となっている。
やがて、アダムとイブの子のカインは人殺しとなる。
価値判断とは私たちは良かれと思ってやっているが、同時にすべての困難の原因となっているともいえる。
では、また!
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