思考を使ってメディテイションというと奇妙に聞こえるかもしれない。
昨今のマインフルネスのブームで思考そのものに忌避観念をもつひともいるようだ。
中世にトマス・アクィナスという哲学者がいた。
彼は回りくどい言葉づかいと論理とで有名だが、思考も彼にとってはメディテイションだった。
知性は論理とイコールではない。
マインドフルネスが大変な人気となっていて、実際に試したことがないひとでも、それがどういうものかなんとなくでもイメージを持っているひとは多いと思う。
例えば、考えを休めようとか、執着を取り払おうとか、あるいは、呼吸を整えようとか。
もちろん、マインドフルネスもいろいろだろから(筆者は、それほどこの業界には詳しくない)十把一絡げにして論じるわけにはいかない。
ただ、マインドフルネスが仏教の文脈から来ていることは確かで、やはり、南方仏教や、禅へのイメージがそうであるように、マインドフルネスに対しても私たちは、思考や執着に対しての忌避観念あがるように想像してしまう。
それは案外間違ってはいなと思うが、ともかく、それは置いておくとして、この「考えを休めよう」とか、「考えることへの執着を取り払おう」とかというようなディスコースが独り歩きして、考えることそのものが罪深いような意見も見られるようになった(そういう本がベストセラーになったりしている)。
しかし、このブログでも以前書いたことだけれど、思考とは手放せないものだ。禅のある老師に言わせると、「考えを手放そうとするのも考えだ」ということで、そうした行い自体に矛盾がある。
で、ここでちょっと見方を変えて、西洋の哲学者の話をしたい。
マインドフルネスが仏教から来ているので、メディテイションといえば、東洋というようなイメージをもつひとが日本でも欧米でも見られるが、実際には、キリスト教にもメディテイションの長い伝統はある。
第一、メディテイションという言葉がラテン語のmeditatioから来ていることから分かるように、西洋でもこれはその文明と同じくらい長い歴史を持っている。
最近、トマス・アクィナスについての解説本を読んでいる、彼の哲学自体もメディテイション抜きでは語れないものがある。
西洋の哲学というと、非常に込み入った言葉づかいと、複雑な論理で構成されているように思われるかもしれないが、はっきりいうと実際そういうものだ。
しかし、それはもちろん、単に著者が衒学的(ペダンチック)に振舞おうとしているのではなくて、そういう言い回しや、アプローチがそのアイデアに適切と考えられたからだ。
トマスも例外なくそうである。
保坂和志がアウグスティヌスへの言及のなかで、「西洋で論理学が発達したのは神というどだい証明不可能なものを真剣に考え続けたからではないか」といっていたが、それはトマスにも当てはまる。
トマスの言い回しが独特なのは「神」という「証明不可能」な存在を証明しようとしたからにほかならない。
で、思考についての話に帰ると、難解なロジックを持つトマスの神学は、昨今のマインドフルネスとはまったく逆の方向へ向かっているようにさえ思える。しかし、彼は、知性を論理とは定義しなかった。知性は論理とイコールではない。そこには直観もふくまれて(至福直観という言葉も出て来る)、むしろ、論理的方法のみで知恵を得ようと考えるのは傲慢と考えた。
知性は論理(あるいは理性的なあらゆる努力)とイコールではない。
ここに保坂さんがいう「神というどだい証明不可能なこと」へのトマスの努力がみえる。
かといって、トマスは思考を悪とみなしたのでもなかった。方法の一部とみた。キリスト教もメディテイションも中庸を押さえている。
では、また!
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