旅から見る、日本人の精神性。

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旅の様子も時代が変われば様子が変わってくる。

日本人の旅も、当然ながら江戸時代と現代とではまったく違う。

江戸時代は寺社への巡礼、そして温泉だった。そして、一部では歌や俳句のための旅行もあった。

現代においては、巡礼は旅の主目的ではないが、神社仏閣は観光地として依然根強い人気がある。

旅が変わると、精神も変わる。

Japanese Tourismという本によると、江戸時代の日本人の旅行の主目的は宗教的な巡礼にあったということだった。コミュニティでお金を募って、代表者がお伊勢参りをする。

もちろん、そこには純粋に信仰のためだけにということだけでなく、巡礼の旅にでることで、コミュニティでの立場の向上も望めるからだった。日本では宗教とコミュニティの経営とが密接に結びついていた。

しかし、これは日本人が科学的な発想を知る前の、かなり精神性を重んじていた時代での話で、明治になり国が開けるとまた事情が変わって来る。外国から、避暑という概念が持ち込まれて、富裕層は、軽井沢や箱根で、西洋式のレジャーを楽しむようになる。大学では山登りがブームとなり、各地の大学で山岳研究会というものができる。軽井沢に避暑にでかけるのであれ、山登りをするのであれ、それはかつての宗教行事としての旅行とはまた違ったものだ。

けれど、一般庶民はそうする余裕はもちろんない、そのころ発達し始めた鉄道に乗って、神社仏閣、それから温泉へと、移動の手段は大きく変わったが、江戸時代とたいして旅の動機自体は変わらなかったことだろう。何より廃藩置県により、各エリアの交通が自由になった。日本国内、お金さえあれば、どこにでも巡礼に行けるのだ。

日本人の旅行の概念が変わったのは、やはり、戦後から高度経済成長期を終えたころだ。それは、日本人の宗教概念の変化が大きく影響している。経済がバブル期に入ると、若者はスキーや海でのレジャーを楽しむようになる。旅というと仲間同士で、あるいは家族で、同じ時間を過ごすためにあるもので、宗教というのは旅の概念のなかには始めから入ってこないものとなった。

もっとも江戸時代であれ、民衆がみなこぞって宗教的熱狂で旅行をしていたかというとそうでもなく、門前町には必ずいまでいう風俗街があり、Japanese Tourismという本のなかではsex tourもあったと記述されている。江戸時代には江戸時代なりの宗教心だけではかたれない動機もあったということだ。

しかし、それでも戦後、やはり日本人の宗教意識が変わったことは明確で、資本主義というものが、人間の精神性にいかに大きな影響力を持っているかがよく分かる事例となっている。

では、高度経済成長からバブル期に、そして、バブルが弾けて長い経済停滞の時代に日本は入るわけだけれど、そのころの日本人はからっきし宗教心がなかったかというともちろんそんなことはない。

あるラジオ番組で聞いたことだけれど、宗教学者が、正月の初詣の様子だけ見ると、イスラム教徒の巡礼と変わらないといっていた。テレビなんかで見るイスラム教徒の様子を見ると、まずその数の多さに驚いてしまうが、それと、日本人の初詣も様子が似ているというのだ。

ということは、きっと、外国人が初詣のひとの集まりを見ると、日本はおそろしく宗教的に熱狂している国のように思えるのではないか。個人の旅行を見ても、いまでもお伊勢参りや京都や奈良で、神社仏閣をめぐるひとは多い。学校行事でも神社仏閣をめぐることもある。

資本主義は人間の生活を様変わりさせて、精神性にも多いきく影響したが、宗教心を駆逐させるまでには至っていない。昨今、マインドフルネスのブームがとくに西洋社会で起きているが、これも人間には精神があることの再発見ではないか。旅もまたスピリチュアリティへの揺り返しがある。

では、また!

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