言葉への執着について考えてみる。

エッセイ

執着にもいろいろあるが、言葉にも執着というものはあるだろうか。アルコールやたばこのように言葉に対して、激しく渇望するということはあるだろうか。

知識欲という言葉があるように、少なくともそれは欲望を掻き立てることはあるようだ。

言葉とどう向き合うべきか。

哲人トマス・アクィナスも言葉の海から離れた。

私たちは何気なしに言葉を使っているけれど、何気なしに使っているだけに、普段、それを意識することはない。朝起きて、家族と挨拶をする。レストランで料理を注文する。もちろん、それらすべてに意味が込められて、社会のなかでそれが共有されているので、滞りなくことは進んでいくけれど、それだけに、普段、ひとつひとつの言葉に意味が込められているなんてことは考えない。

しかし、考えないからといって意味が存在しないわけではなく、私たちの生活と無関係になるわけでもない。言葉には意味があるし、それによって、意識するかしないかにかかわらず、私たちの感情、意志も微妙に運動している。

それであるだけにちょっと複雑。

例えば、コーヒーが好きなひとがいたとする。でも睡眠の質が悪くなったので、コーヒーをやめようと思うがなかなか思うようにいかない。なぜなら、我慢してもコーヒーを欲するからだ。

しかし、彼の頭からコーヒーという言葉を取ってみるとする。それだけで、このひとのコーヒー依存はずいぶん楽になるはずだ。もちろん、ひとは言葉だけに依存するわけではないので、目の前に缶コーヒーを見つけたり、コーヒーの臭いを嗅いでしまうと、とっさに反応してしまうということはあり得るだろうが、コーヒーという言葉がなくなったら、その概念もないわけで、それに対して思考を巡らすことはない。つまり、我慢の生活はずいぶん楽となる。

言葉は見えないが、それでいてインパクトは強い。

言葉というのは、意味をもつ、つまりコンセプトをもつ。それがひとの思考に指示を与えて、行動を促す。

ときには、言葉がもつ作用自体に執着してしまうこともある。

意味を持つということは、感情が動くといことだ。それだけ、刺激が多いということだ。刺激が多いと、ときに心地よさにかわる。本を読んで知識をため込むと、様々なものを認識できるようになったような気がする。木の名前を多く知っておれば、多くの木を知ったかのように感じる。これが心地よい、そして、知識欲というようなものが芽生えてくる。

でも、これも執着心を掻き立てていることには変わりはない。

最近、トマス・アクィナスについての解説本を読んでいる。彼は中世イタリアの大哲学者で、「神学大全」という日本語の翻訳にして四十五巻という大著をしるした人物でもあるが、その「神学大全」もかれの全著作からすると、ほんの七分の一になる。偉人。

しかし、そんな大哲学者も、晩年に悟って、ものを書かなくなってしまうのだ。「私の仕事は藁くずだった」といったらしい。トマスは、言葉の海から離れることになる。

西洋の神学や哲学をちょっとかじったひとなら分かると思うが、我々日本人にはかなり苦痛に思われるほど、論理的で回りくどい言い方をする。トマスも例外ではない。場合によっては、なぜ、そんな当たり前のことを小難しくいうのだ、とさえ思う。

だが、トマス自身は、論理、つまり、言葉を積み重ねることによって、神の英知(彼は神学者でもある)にたどり着けるとは考えなかった。論理も方法のひとつであり、彼のいう知性はとは論理がすべてを説明するわけではない。直観も含まれる。

と、ここでトマス神学を敷衍する気はないが、要するに、中世のカトリックの哲学においても、我々の言葉は完全ではない、という理解があったのだ。

ちなみに、禅寺には本がないと聞いた。本は言葉の海だ。言葉が不完全だとすると、そこでの学びもまた完全ではなくなる。学びもまた不完全、そう思えてはじめて学びが始まる、と昔の哲学者がいった。嘘です、私の作った言葉です。

では、また!

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